草食御曹司の恋
お見合いでの一件から、すっかり母とは疎遠になっていた。勘当された訳ではないが、自立すると言った手前、実家を出て一人暮らしをすることにしたためだ。
どうにかこうにか採用の知らせをもらったのは、シンガポールの不動産会社で、無事にビザも発給された。
いよいよ日本を発つという日に、実家を訪れて家族に事の次第を伝える。
母は、どうやら私がクマザワを辞めたことは知っていたようだが、辞めた理由がまさか海外への転職だとは思っていなかったようだった。
唖然とする母にいらぬ心配をさせないようにきちんと説明をして、最後は微笑んで別れの挨拶をする。
「じゃあ、お母さん。そろそろ、行くね」
手を振り返した母は複雑な表情を浮かべていた。
空港に向かう途中、その母の顔を思い浮かべて、結局、母が急に私にお見合いを勧めた理由は聞けないままだったなと思いだす。
『とってもいい方なのよ。一度お会いしてみたら?』
理由を問いただしても、そればかり繰り返していた母を思い出す。
確かに、悪い出会いじゃなかった。
彼は私にはもったいなさ過ぎるくらいに、素敵な男性だった。
例えば、二年前に。
仕事ではなく彼との結婚を選んでいたら、どうなっていただろうか。
そんな考えても仕方ないことばかりが頭の中を巡りそうになるのを、必死に振り払った。
過去を振り返るのはやめよう。
前だけを見て、歩いて行こう。
目の前に見えるのは、明るいだけの未来じゃない。たぶん、苦難の多い人生だろう。
それでも、やると決めたからにはやる。
決意を固めるために、もう一度自分に言い聞かせる。
私は、失恋から逃げる訳ではない。
新しい自分を掴むために旅立つのだと。
飛び立ったばかりの飛行機の中。
日本の上空、雲の切れ間から差す光を見て、最後にそっと願った。
どうか、彼のいる場所だけは、絶え間なく光が注ぎますように。
人一倍努力家で、優しく紳士的な彼を、照らし続けてくれますように。
こぼれた涙ごと乱暴にブランケットに包まって、私は浅い眠りについた。