草食御曹司の恋

それから、数週間後。
悩みに悩んだ末に、私は彼に退職を申し出た。

理由を尋ねられるかと思ったが、彼は一瞬だけ困ったような表情を浮かべた後で、「分かりました」といつもの無表情で答えた。

他にやりたいことが見つかった。
用意しておいた理由は言わずに済んだ。
嘘ではなくて、やりたいと思っていることがあるのは事実だ。

仕事に支障がないようにと退職時期について相談すると、彼は無表情のまま「今月末までで結構です」と私に告げた。
「明日から有休を消化していただいて構いません」とも。

最初から、私は必要とされていなかったのかも知れないという事実に打ちのめされそうになったが、私は深々と頭を下げた。

「二年間、お世話になりました」
「こちらこそ」

頭を下げていたので、彼がどんな顔をしていたのかは分からない。おそらくはいつもと変わらぬ無表情だろう。

私の身勝手な行動に対する心からの謝罪と、感謝を込めて。
そして、あなたのこれからの幸せを祈って。
私はこれまでの人生の中で一番長いお辞儀をした。


この日を境に、本格的な自活に向けての準備を始めた。

以前から興味があったのは、海外で働くことだ。唯一自信のある語学力を活かせることと、矢島物産の社長の姪ではなく、矢島美波という人間を必要としてもらえる場所で働きたかったのが理由だった。
そして、海外で生活の基盤が出来た後には、働きながら現地の大学院で経営に関する勉強をしようと目論んでいた。

そして、26歳にして恥ずかしながら生まれて初めてまともに就職活動というものを経験した私は、海外転職サイトや知人からの紹介で、運良くいくつかの企業の面接までこぎ着けることができた。
スカイプや日本支社で受けられる面接もあったが、現地に行かねばならない場合には、今までお給料をこつこつ貯めてきた貯金で渡航費用を賄う。
どこかに採用されれば、すぐにでも海外で旅立てるようにと、ここ数ヶ月は面接を受けながら、荷造りをする生活を送っていた。
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