草食御曹司の恋

「……で、どっかの坊ちゃんに横から掻っ攫われるのを指くわえて見てるって訳か。さすが絶食系だな。そのうち餓え死ぬぞ」

十五年来の友人の呆れた声が、頭の上をかすめる。
休日の大学の研究室は、数人の学生が実験データを確認しに時折顔を出すものの、平日と比べれば閑散としていた。

「別に恋愛などしなくとも、死なない。お前だって、適当に遊んでるだけで、本命の恋人もいないくせに偉そうなこと言うなよ」
「俺はそういう主義なの。特定の恋人が居ると仕事の邪魔だし、色々と面倒だし。目の前に本命の女がいたのに、みすみす逃したお前とは違うんだよ」
「……頼むから、もう少し言葉を選んでくれ。さっきからいちいち堪える」
「あの、天才だと持て囃されて、教授陣の覚えもめでたかった熊澤錬が、研究室で頭を抱える日が来るとはな」
「……頼むから少しそっとしておいてくれ」
「じゃあ、わざわざこんなとこ来るなよ。暇なら会社で仕事でもしてろ。やることは山ほどあるんだろ?」
「会社に行くと彼女の顔が頭をちらついて仕方ない」
「重症だな。頭が冷えたら、邪魔だからすぐに帰れよ」

そう言いのこして、三浦博之(みうらひろゆき)は研究室の扉から外に出て行った。
何だかんだ言いつつも、少しはそっとしておいてくれるつもりなのか。
そう考えて、すぐにそんな訳はないと思い直す。おそらく冷めきった恋愛観を持つ博之には、俺の気持ちなど理解できないに違いない。おそらくは別室に実験のデータでも取りに行ったのだろう。

机に突っ伏しながら、そんな風に冷静に分析をする間にも、脳裏に彼女の笑顔がちらつく。
博之の言うとおり、そんなに好きならば早いうちにアプローチするべきだったのだ。

でも、またあの日のように“自分”よりも“仕事”を選ばれたなら、今度こそ彼女を完全に手放さねばならない。
そう思うと、ほんの少しの勇気も振り絞れなかった。

熊澤錬、30歳。
誇れるものは仕事くらい。
それも生まれつき恵まれ過ぎていた環境によるところが大きい。
見た目にも、性格にも、恋愛テクニックにも、まるで自信はない。
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