草食御曹司の恋

「室長、会議のお時間です。そろそろお出かけになられたほうが……」

眉間に皺を寄せて資料を読む上司に声を掛ける。

「ああ、ありがとう。確か、今日は六階か」

視線は資料に落としたまま、彼は立ち上がりジャケットを羽織った。
見るからに仕立ての良いスーツ姿だが、日中オフィスに居る間は無造作に椅子の背に掛けられているジャケットは背中にやや皺が寄ってしまっている。

そんな服の皺なんて小さなことはまるで気にしていないであろう彼は背後の棚から必要な2、3の資料を掴んでから、部屋の出入り口へと向かう。
その途中で少しだけ足を止めてこちらを振り返った。

「矢島さん。帰りにテクニカルセンターに寄るから、戻るのは遅くなる。今、頼んでる仕事が終わったら帰ってもらって構わないよ」

私に向けて簡単な伝達を済ますと、彼はすぐにもう一度背を向けて歩き出した。おそらく、私と目を合わせたのはほんの数秒だ。

「わかりました。いってらっしゃいませ」

私の返した言葉すら届いているのか分からない。
毎回、丁寧にお辞儀までして送り出していることには、絶対に気が付いていないだろう。

ドアがパタンと閉まる。
先ほどまで二人だった空間にぽつんと一人取り残された。

先ほどまで、彼が座っていたデスクを見つめれば自然とため息が漏れた。

デスクの上に整然と積まれている資料と図面、書棚に並べられた難解な専門書。
彼の頭の中までは覗けないが、さぞかし、私には想像も出来ないような難解なことを考えているのだろう。
その証拠に、彼が電話に向けてする会話は、専門用語だらけで内容の半分も理解できない。
日本語だけでなく、英語やドイツ語のこともあるが、理解できないのは言語のせいではなかった。
(何故なら、私は日常会話程度の英語とドイツ語は話せるからだ。)


私の口からため息が漏れた。
仕事の内容についていけないことを嘆いたのではない。
毎日一日中同じ部屋にいても、ほとんど目を合わせることのない上司に、恋をしている所為である。
< 2 / 65 >

この作品をシェア

pagetop