草食御曹司の恋

熊澤錬(くまざわれん)。
株式会社熊澤精機、開発生産本部、技術ソリューション室長。

30歳にして、世界有数の工作機械メーカーの開発部門の要職に就く彼は、この会社ではちょっとした有名人だ。

それもそのはず。
彼はクマザワの創業者一家の長男で、現在の社長である父の跡を継ぎ、いずれはこの会社のトップに立つことが有力視されている御曹司なのだ。

となれば、若い女子社員などは、将来の玉の輿を夢見て、彼に熱い視線を送って……
いるかというと、そういう訳でもない。


「矢島さん、今って室長いないよね?」

コンコンとノック音がしたかと思えば、すぐにドアの外側から声がする。
おそらく扉の外側の人物はこの部屋の主の不在を確認してからやって来たのだろう。

「はい、先ほど出られました。お戻りは遅くなられるそうです」

ガチャリと扉を開けて、ドアの外側の人物を中に招き入れる。彼女はホッとしたように溜息をついて、微笑んだ。

「ありがと。実はさ、うちの若い子が午前中に提出した書類にミスがあったらしくって。今のうちにそっと直しておきたくてさ」
「秋田さん、これですか?」
「そうそう、それ。ありがとう。じゃあ、すぐに直して持ってくるわね」
「急がなくても大丈夫ですよ。室長に事情は説明しておきますから」
「いやよ、それじゃあ、ミスしたのがバレるじゃない。あの無表情な顔で“分かりました”って言われるのホント怖いんだから」
「……は、はあ。室長には他意はないと思うんですけど」
「そう?でも、無表情すぎて何考えてるか本当に分かんないんだもん。怖いって。仕事の指示だけはやたら的確でさ、こなしてる業務量もハンパなくて。ひょっとして、アンドロイドなのか?ってみんなずっと疑ってるわよ」
「まさか、そんな訳……」
「矢島さん、よく一日中おんなじ部屋にいて平気よね?私だったら息が詰まって、死んじゃう」
「そんな、大げさな……」

室長がその性格ゆえに、直属の部下からも敬遠されるくらいに、近寄りがたい存在になっているのは事実だ。私が他に聞いた噂では、人見知りのまま大人になってしまった説から、本当は宇宙人なんじゃないかという説まであった。

「じゃあ、これ、借りていくわね」と言い残して、秋田さんは書類を手に軽やかに室長室を出て行った。

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