Poisony Poison Girl
毒素さんは、閉じ込められるのが嫌だったのだ。普段は優しい所長に対しても、自分を閉じ込めて研究している事に不快感を覚えていたらしい。しかしここまでして外に出たかったとは…ごめん、少しだけ、思っていた。
「わかりました。もう何も言いません。廊下の突き当たりに非常階段があります。くれぐれもバレないように…」
「何言ってんのお兄さんも同席なさいよね」
 いつもの調子で言った。
 ……。少女に夢を見せるためふたりでランデブーか。いいかもしれない。場違いな表現で毒素さんとの外の世界を想像してみた。
「わかりました」
 僕は毒素さんの手を取った。ふたりは歩き始めた。一瞬だけ、どうなったっていいや、なんて、間違えて、思ってしまったかもしれない。

月に照らされたさざ波が揺れている。今日は少しだけ風があるようで、露出した耳に感じる澄んだ感覚がその存在を物語る。波の表面は刹那毎に移り変わる白い光の筋をまとっていてビロードのようだ。毒素さんは初めて見る景色だろう。いつか毒素さんと海釣りをしてみたい。その時はルイも呼ぼう。
「…あれ、毒素さんがやったんですか?」
「なんのこと?」
「所長が倒れたんですよ」
「…そう」
 ふたりは堤防の上を歩いていた。毒素さんはふらふらと、支える僕はしっかりと。河川敷には芝が生えている。少年少女の遊び場となっているようだ。いつか毒素さんとサッカーをしてみたい。
「所長が倒れるなんて仕事か人づきあいでのストレスくらいかと思ってました」
「…私だよやったの」
 やはり…そうだった。
「正確にはルイお兄さんも協力してくれて」
「ルイ?」
「ルイお兄さんが持ってきてくれたの、あのキノコ。あれから毒をもらったのね」
 成程…ルイが…。
「だって、このまま閉じ込められ続けるなんて嫌だよ、移動しちゃったらさらに監視されるだろうし、だったら、命がけで逃げ出した方が楽しい」
そして毒素さんはポケットから紙きれを出した。本に付属している栞のようだった。黄色い長方形の紙に黒のペンで《がんばれよ》と書かれた字体は確実にルイのものだった。何を頑張るのか僕には分からなかったが、彼の心からの言葉なのだろう。
「だけど、そのために所長を…」
「ベニテングタケの毒は致死量にまで達してないから、お父さんは助かるよ」
 お父さん…仮にも毒素さんの父親…。
「毒素さん。これからどうするんですか?」
「お兄さんの髪を切りに行くんだよね」
 …まったく。やっぱり毒素さんは…普通の女の子に、なりたいらしい。ひとつ毒づいてみる。
「あれ、毒素さんが切らなくていいんですねわかりました」
「あ、やっぱり切りたい切らせて」
「美容院のネット予約でもしますか」
「やめてええ」
 悲痛な叫び声をあげる毒素さん。可愛らしい。ほどいた髪をぱさぱさとさせながら歩いてくる。屋外にいると新鮮だ。和むなあ、笑うの顔文字。

このまま、どこか遠くへ行ってしまうのもいいのかもしれない。ふたりで、幸せになりたい。
 空には星座がきらめいていた。毒ラボは開けた場所、九州の海に面した平野の片隅にあるので、周囲から空を眺めると晴れた夜なら綺麗な星を観測できる。残念ながら僕は、天文学はかじった程度の勉強しかしていないので、学力としては微妙なところだ。いつか毒素さんと、全学研天文学部付属の天文台に遊びに行きたい。ここからそう遠くないだろう。毒素さんはどこか、行きたい所はあるのかな。毒素さん。

 ―――――毒素さん?

 瞬間。振り返ってみた。毒素さんは倒れていた。ぱたりと。道端に仰向けに、星を眺めるように倒れていた。
「私、あれ、知ってるよ。赤い星。アンタレス、さ、ささそり座」
 声は震えていた。言葉を紡ぐのもままならない。僕は毒素さんに駆け寄った。
 毒素さんの頬に触れる。夜の闇で良く見えないが、健康でないことは確かだ。ゼエゼエとした息づかいを感じる。毒素さんの体温が急速に何かに奪われていくのを感じる。
「毒素さん…」
「…赤い星、き、れい……」
 毒素さんの瞳が映す宇宙のはるか遠くには、毒々しく瞬く真っ赤な星があった。毒素さんの口が閉じる。もう何も語れなくなった。毒素さんの瞳が閉じる。もう何も見えなくなった。首が右に倒れ、顔だけが僕のほうを向く。もう毒素さんは助からないだろうなと思ってしまった。
 十分の二秒、当たり前のように僕の肩から生えている僕の右手に、痺れという感覚が認識された。毒素さんの頬に触れていた手だ。毒素さんの瞳から流れ落ちて来た、目の洗浄が必要な時か感情が高ぶった時に分泌される体液、すなわち《涙》に含まれていた、神経系の毒だった。痺れが徐々に大きくなっていく。ヒリヒリした感覚が手首、肘、肩、首筋を伝う。知らなかった。毒素さんの涙が、こんなに猛毒だったなんて。先に言ってよね。だったら、絶対、泣かせたりしなかったのに。
 毒素さんの身体。華奢な腕。細い足。弱々しい少女。僕は彼女を救うことができなかった…。
 毒素さんの傍らに倒れてみる。再び彼女の手を取ってみる。どんどんと意識が遠のいていく。もう僕は助からないだろうな、と思ってしまった。
 ふたりの身体は少しずつ、静かに、冷たくなっていく。毒素さんは毒を浄化され、僕は毒に汚染されていく…。毒素さんの身体から毒が完全に消え去った時、毒素さんは、彼女の憧れていた普通の女の子になれるのかな。
 僕の視界から毒素さんが消え、僕の意識からも毒素さんが消えた。

 僕は死んで、毒素さんも死んだ。

 ……。

 最期の最期の一瞬、とある心理状態が僕の中で観測された。シュレディンガーの猫、量子力学。信じきれていなかった学論が心理の中で起こっている。今まで気がついていなかった、曖昧な気持ちが、この瞬間、明確になった。

 好きでした、毒素さん。
 おやすみ。
 今日も素敵な一日でした。
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