バナナの実 【近未来 ハード SF】
すると、タケシは、うずく古傷でも隠すような仕草で、妙なことを言い始めた。
「最近、あの人のいい噂(うわさ)聞かないから気付けた方がいいよ」
「何か、あったんですか?」
「あっ! タケシさん、こんばんわ」
辻の背後からする男の低い声は、突然だった。
誰かがタケシに挨拶したのだ。
蝶の燐粉(りんぷん)舞う空間を振り返ると、見覚えのある顔に少し硬直(こうちょく)する。
以前、“偽医者だ!”とやすがデパートで呼んだ、名探偵コナン似の仕草をするヤスだった。
何でもやすがバンコクで猫に足首を噛まれ、狂犬病の恐れがあるかどうか自称医者だという彼に尋ねたそうだ。
すると、猫に狂犬病はないと教えたのだという。
念のため掛かりつけの女医に訊くと、猫でも狂犬病にかかる恐れがあるとのことで、その日のうちに予防注射を打ったと聞かされていた。
それで、辻は、偽医者のヤスという人は嘘つきだと信じ、クラブで見かけても関わらないようにしていた。
それが今夜、タケシを通し、そのヤスと面識を持つようになったのだ。
辻が遅れて挨拶すると、彼もかしこまり低い声で応答する。
「あの金メッシュの人、今、タイだってさ。あの話、詳しくしてあげてよ」と声の良く通る滑舌(かつぜつ)でタケシがいう。
「あっ、金メッシュとお友達なんですか?」
救急車が向かってくるような、高い口調で尋ねる。
「ええ、お友達というか、ビリヤードを教えてもらったり、いろいろ楽しい話を聞かせてもらったり、親しくさせて頂いていますが・・・」
「あ、そうー」
彼によれば、バンコクで旅行者からお金を騙(だま)し取ったことがあるという話の内容だった。
「えっ、ホントですか?」
耳を疑った。
以前、会った時は『5万ドルのトラベラーズチェック作ってきたよ』と聞いていたし、実際にお金持ちの社長だと思っていた辻には、そんなことをする人にはどうしても思えなかった。