今、鐘が鳴る
「また勝手なことを!」
碧生くんが恭匡さんにそう窘めると、恭匡さんは碧生くんに舌を出して見せた。

子供みたい……。

でもその後恭匡さんは、ドカッと座椅子に座り直してから威厳たっぷりに言った。
「僕が許す。橘のおばさまにも天花寺姓に戻ってもらってもいい。」

偉そうな態度と言葉なのに柔らかい声と笑顔……先代の御当主を思い出した。

これは、夢?
お酒の席での冗談?

「……母が聞いたら……喜びますわ。」
かろうじてそう言ってから、由未さんにお願いした。
「私にも、いただける?お酒。」

ドキドキしすぎて落ち着かない。
これが飲まずにやってられるか!という気持ちなのだろうか。

私は由未さんが持ってきてくれたお猪口を碧生くんに突き出して注いでもらうとクイッと飲み干した。
無言でおかわりをねだり3杯続けて飲んでから、恭匡さんに言った。

「一筆書いてください。母が天花寺姓に戻っていいって。」
冗談で終わらせたくない。
珍しく鼻息の荒い私に碧生くんは驚いていたけれど、恭匡さんは
「いいよ~。」
と、ご機嫌さんで立ち上がった。

恭匡さんは庭に面して置かれた文机に向かい、少し墨を摺ると、さらさらと迷いなく筆を動かした。
「百合子と碧生君が結婚したら、天花寺家の夫婦養子に入ってね。領子(えりこ)おばさまも天花寺姓を望まれますならご一緒にどうぞ。」
鼻歌でも歌うかのようにそう言いながら、恭匡さんは口語で記しているらしい。

最後に
「阿部橘の苔のむすまで。」
と書き添えて、ご自分のお名前を記された。

「落款か実印もいる?」
そう聞かれたけど、首を横に振った。

「信頼してますからいいです。……ところで、あべたちばな、って何ですか?」
「ん?橙のことだよ。ちょうどいいでしょ?末永くよろしく、って意味。」

橙を阿部橘って言うの?
知らなかった。

「でも、それ、おばさまに見せると、百合子、もう碧生くんから逃げられないよ?いいの?」
恭匡さんはニヤニヤ笑ってそう言った。

「とっくに逃げる気なんてありませんわ。」
私はそう言ってから、碧生くんと微笑みを交わす。

……むしろずっと捕まえていてほしいのよ、と。


「明日、決勝に勝ち上がられたらしいよ。」
私のためのお布団を敷いてくれながら、碧生くんが思い出したようにそう言った。

「……そうですか。復調されたのね。よかった……」

泉さん……競輪祭の決勝に出られるほどお元気になられたのなら、もう大丈夫ね。
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