ビタージャムメモリ
車の方へ足を踏み出した歩くんに、お母さんが口の端を上げる。

それを見守りながら、震える手で携帯を取り出し、耳元で鳴るコール音を祈る思いで数えた。

予想に反して、数える間もなく電話は繋がった。



『はい』

「先生、すみません、あの、今どちらですか」

『後ろにいるよ』

「えっ…?」



振り向くと、駅に向かったはずの先生の姿が、確かにすぐそこにある。

えっ?

先生は数歩で私のそばまで来ると、携帯をコートのポケットにしまい、私に微笑みかけた。



「え、どうして…」

「ちょっとね、──歩!」



予想もしなかった声に呼ばれ、歩くんがびっくりしたように足を止め、振り返った。

その顔からみるみる緊張が消えて、泣きそうな表情になる。

それを見て、私も安堵のあまり力が抜けた。



「巧兄…」

「歩は行かなくていい、話なら俺が聞く、姉さん」



駆け戻ってくる歩くんを見つめていたお母さんが、面白くなさそうに息をつく。



「久し振り、巧、変わりない?」

「話って?」

「立ち話じゃなんだから、日を改めるわ」

「なら連絡は俺にくれ、歩じゃなく」

「私にだって息子に会う権利くらい、あると思うんだけど」



先生は沈黙で答え、戻って来た歩くんの頭を片手で抱き寄せた。

お母さんは、この場に見切りをつけたらしい。

小さく肩をすくめて微笑む。



「また連絡するわ」

「姉さんの連絡先は?」

「疑り深くなったものねえ、巧」

「用心深いと言ってくれ」



また消息を断たれては厄介と踏んだんだろう、先生はきっちりとお姉さんの電話番号を聞き出し、泊まっているホテルまで確認した。

かなりの高級ホテルだ。

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