ビタージャムメモリ
あのサロンでは、何を弾くかは演奏者に任されているらしい。

歩くんたちはレパートリーの中から毎回数曲を選び、さらに毎月数曲ずつ、持ち曲を増やしていくんだそうだ。



「シーズン物とか取り入れたほうが受けるし、まじめにやろうとするとけっこう忙しいんだよな」

「ふうん」

「これさあ、俺の好きなバイオリニストなんだ。もうすっげえじいさんなんだけど、この音、セクシーだと思わねえ?」



言いながら、イヤホンの片方を私の耳に挿してくれる。

残念ながら、セクシーかどうかは私にはわからなかったけれど、歩くんが夢中になっているものを分けてくれるのが嬉しい。


好きだから一生の仕事に、なんて単純な世界じゃないんだろう。

でも、先生がやめさせたくないと願うのは、わかる。

だってこんなに生き生きしてる歩くんを、初めて見る。


私がなんとなく笑っているのを、音が気に入ったんだと解釈したらしく、歩くんは、いいだろ、と嬉しそうな顔をした。

何が正解なんだろう。

早く先生のところに戻してあげたい。

でもそのためには、整理しなきゃいけないことがたくさんある。



「この曲、聞いたことある」

「あー、ちょっと前、CMに使われてたよな」

「週末、何か予定ある?」

「店の練習室借りに行こうかなあって思ってるけど、なんで?」

「ううん」



頑張ってね、と言うと、にこっと微笑む。


ねえ歩くん、私にできること、あるかな。

何かできたらいいんだけど。

こうして場所を提供するくらいしか、思いつかないよ。


だからせめて、ここでは素直になってね。

どうしたいのか、ゆっくり考えて。

急かしたりしないから。

好きなだけいていいからね。



「眠い? 俺もうちょっと、これやってていい?」

「ずっとやってていいよ、見てても邪魔じゃない?」

「邪魔じゃねーけど、楽しいか?」

「楽しいよ」



抱えたひざに頭を乗せて、綺麗な横顔をぼんやり眺めた。

時折、視線に気づくと手を伸ばして頭をなでてくれる。


歩くんにとって、一番幸せな道が見つかりますように。


ねえ先生。

先生も、同じ思いですよね。



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