ビタージャムメモリ

夕方になって、歩くんはバイオリンケースを持って帰ってきた。

ベッドで寝ている私に気を使ってか、明かりをつけずに上がり、そばまでやってきて、冷たい指を私の額に当てる。



「ぶり返した?」

「少し…でももう平気。先生が探してたよ」

「ん、電話あった」



じゃあ、お話できたんだ。

薄暗がりの中で、歩くんの表情はよく見えない。

外の冷気をまとったコートを脱ぐと、洗面所で手を洗ってから、また戻ってくる。

無言で床に座り込み、ベッドに顔を伏せた。



「歩くん」

「弓生も聞いたんだろ」

「年始のこと? 行くの、歩くん?」



うなずく頭に手を伸ばして、なでた。

嫌がりもせず、さらさらした髪に指を通させてくれる。



「何かつらいなら、話聞くよ」

「ううん」



伏せたままの頭が、ふるふると揺れた。



「自分のことだし、自分で考える」

「そう…」

「それまで、俺ここにいていい? 今巧兄のとこに戻ったら、俺、また甘えてわがまま言いだすと思うから」

「いいよ、もちろん」



サンキュ、とくぐもった声がする。

かすみさんと、梶井さんと会う日。

その時までに歩くんは、彼なりの答えを出さなきゃいけない。

時間なんて、いくらあっても足りないだろうに。

約束の日までは、あと一週間と少し。


いつの間にか歩くんは、ベッドに頭を乗せたまま寝息をたてていた。

疲れているのかもしれない。

終日バイオリンを持って出かけることの多い彼が、どこで何をしているのかは謎なんだけど。

いつもと違う生活で、その上お母さんのこともあって。

きっと、くたくただろう。


その日、さすがに横になった方がいいと思って私が起こすまで、歩くんは眠ったままだった。



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