ビタージャムメモリ
ここのところ、それなりに近くにいたからわかる。

歩くんは奔放に見えて複雑な子で、いろいろなものと戦ってる。

父親のわからない出自と、捨てられた過去と、再会してなお振り回そうとするお母さんと、自分の将来と、せっかく先生が入れてくれた学校に行っていない今と。

美しい容姿とか、回転の速い頭とか、音楽の才能とか、人よりよっぽど多くのものを持っているのに、持っていないものしか見えてなくて、いつも寂しい思いをしてる。

先生のことだけは離すまいと、赤ちゃんみたいに必死に手を握ってる。


歩くんの基盤を、そこまで不安定にした根源であるふたりが、この上まだ何か干渉しようとするなんて。

許せないです。

私、許せないです、先生。


言葉が続かなくなった。

膝の上で手を握りしめる私の肩に、温かい手が置かれた。



「先生…」

「梶井さん、歩の件は一度、なかったことにさせてください」

「僕は決して」

「いい話だと、僕は今でも思っています。だがこちらも頭を整理する時間がほしい。それまで迂闊に歩に近づいてもらいたくない」



厳しい声音と裏腹に、先生が私の肩を優しく叩き、立ち上がる。



「この場での話は終わりです。お引き取りを」

「でも巧、早い方がいいの、わかるでしょ」

「姉さんにはもう、歩に関わる資格はないと考えてくれ」



ソファを回り込んで、ドアの方へ向かう。

痛烈な言葉を突きつけられて、かすみさんは怒りとも悲しみともつかない表情を浮かべ、涙ぐんだ。

先生の調子は、いっそう厳しくなる。



「早い方がいい? 10年以上も歩を放っておいたのは誰だ。今さら餌をちらつかせて近づこうなんて虫のいい話を、俺が許すと思わないでほしい」

「それには、事情が…」

「事情がなんだ! 歩は姉さんたちが身勝手に押しつけた人生を、文句も言わずに生きてきた。どんな事情があれ、言い訳する権利なんて姉さんにはない」



先生が声を荒げるのを、初めて聞いた。

いつも冷静で、学生を注意する時ですら穏やかだった先生が。



「巧…」

「帰ってくれ。申し訳ないが、あなたも」



梶井さんはうなずき、まだ何か言いたそうなかすみさんを促して席を立とうとする。

先生がドアを押し開け、次の瞬間、息を呑んだ。



廊下に、歩くんが立っていた。



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