ビタージャムメモリ
無邪気な歩くんは、それに気づいていない。

先生ばっかりやきもきして、歩くんの世界が広がったのを喜ぶ半面、手の中から飛び立つ日が近いのを寂しがっている。



「心配なさらなくても、歩くんの一番は先生ですよ」

「別に、心配なんてしてないけど」



言ってから、バツが悪そうに口をつぐむ。

ですよね、今の「それくらいわかってる」って口調ですもんね。



「どっちにも、面白くないって思ったのも確かだよ」

「そうですか、嬉しいです」

「本当に」



焦る先生が新鮮で、可愛くて、笑った。

赤信号で停車した時、またキスをした。

先生は案外照れ屋なのか、それとも意外に強引なのか、なんの前触れもなく私に手を伸ばし。

顔を自分のほうに向けさせて、何も言わずにキスをする。


結局名前は呼んでくれないけれど。

曖昧な言葉しか、もらえてないけれど。


先生があの歩くんに対して、少しでも嫉妬めいたものを感じたという、それが本当なら。

私はそこにある可能性を信じて、奇跡のようなこの幸せを、味わうことにする。


若かりし、十代の最後の冬の、苦い苦い記憶。

埋めたり知らんぷりしたりしたところで、決して消えてくれはしないそれを、自分の手で掘り出して。

今度こそ、バカだねえって笑ってあげるの。

そうでなきゃ、愚かなりに真剣だったあの時の私が、かわいそうすぎる。

そう思えるくらいには、大人になったから。


時折レバーに置かれる、男の人らしい左手を見つめていたら、気づかれていたらしく、何? と訊かれた。

いえ、と首を振ると、先生はちょっと微笑んで。

私の膝の上で、指を絡めて、手を繋いでくれた。


そうか、これがふたりきりのドライブか、と私は今ごろ理解して。

確かに歩くん、次はないからね、なんて。


心の中で、手のひらを返した。



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