うそつきハムスターの恋人
二人でタクシーに乗って向かったのは、本社から一番近く、会社の健康診断でも来たことのある総合病院だった。

案の定、どこも怪我をしておらず、診察もあっという間に終わった私が、整形外科外来の前のソファーに座ることニ時間半。

病院の中にいると、空の色が見えないから何時かわからなくなるけれど、体は正直でさっきからたまにお腹がぐう、と鳴っている。

「お大事に」

看護師さんの声にはっと顔を上げる。
目に飛び込んできた水嶋さんの姿を見た瞬間、私は言葉を失った。

水嶋さんは、右肘から手首にかけて、白いギプスで固定され、さらに曲げた状態のまま肩から三角巾で吊られている。
スーツには袖を通さず、肩からかけているだけだった。

「折れてた。 肘頭(ちゅうとう)骨折 。保存的治療、つまりギプスで固定しておくだけ。全治一ヶ月だってさ」

まさか。
折れていたなんて……。

「なんか言えよ。痛いですか、とか大丈夫ですか、とか」

水嶋さんは左手でギプスをさすりながら、思いっきり不機嫌そうに言った。

「痛いですか?」

「痛いね」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないね」

そりゃあ、そうだよね。
私をかばって落ちたから、肘をまともに打ってしまったのだろう。
そう思うと、申し訳なさで胸が苦しい。

会計を済ませて病院の外に出ると、もう真っ暗だった。
エントランスのタクシー乗り場に数台のタクシーが停まっている。

「……あの! 本当に申し訳ありません。私のせいですよね……」

水嶋さんが帰ってしまう前に、これだけは言わなければと口を開いた。

「……治療費とか、私がお支払いいたしますので」

「そんなのは別にいい」

水嶋さんは私を見下ろして、こんなの労災がおりるだろうし、とつぶやくように言った。

「そんなことより」

水嶋さんは、ギプスをはめた自分の右腕を見ながらしばらく黙りこんだ。

「一ヶ月だぞ?」

「……はい」

「ギプスが取れるまでの一ヶ月、俺どうやって生活すればいいわけ? 下手したら餓死するよな?」

水嶋さんは真面目な顔で私に聞く。

「……いや、大丈夫、だと思いますが」

どうしてそうなるの?
確かに不便ではあるだろうけど、餓死まではしないでしょ。

「大澤ぁ、想像してみろよ? 右腕が使えない生活を。飯とかどうすんの?」

「コンビニがあります」

「一ヶ月間もずっと?」

「……それは確かに少しきついかも、ですね」

「風呂とか着替えとか。洗濯とか掃除とか」

「でも、右手が使えないなら、左手を使えばいいじゃないですか!」

励ますつもりで言ったのに、水嶋さんはまた不機嫌そうに顔をしかめた。

「お前さ、パンがないならケーキを食べればいいじゃない、みたいなこと言うなよ」

「言ってませんよ!」

慌てて否定しながら、ふと思った。
確かに。
片腕しか使えない生活とは確かに不便だろう。
毎日の洗濯や掃除だって、片腕だと不便だし、お風呂やトイレだっていつもより時間がかかってしまう。
しかも、左腕ならまだしも右腕なのだ。
餓死とまではいかないけれど、利き腕である右手が使えないとしたら。
お箸も持てない、字も書けない、包丁もハサミだって持てない。
アイラインもひけない。髪も結べない。
できないことばっかりだ。
右腕を骨折するというのは、つまりそういうことなのだ。
そして、水嶋さんがこんな目にあったのは、他でもない私の責任なのだ。

「水嶋さんはおひとり暮らしなんですか?」

「そうだけど?」

「お付き合いをされている方は?」

「今はいないけど、なに?」

「わかりました」

私は気を決して、水嶋さんを見上げた。

「なにがわかったんだよ?」

「ギプスが外れるまでの一ヶ月、私が住み込みで水嶋さんのお世話をいたします」

「は?」

水嶋さんはしばらく唖然とした後、急にお腹を抱えて笑いだした。

笑うと驚くほど柔らかい顔になる。
多分、二十五、六歳の水嶋さんが、急に少年みたいに見えるほど無邪気な笑顔。
ずっと、不機嫌そうな顔とか痛そうな顔とかばかり見ていたから、そのギャップに驚いて思わずみとれてしまった。

「あいたたたた、笑うと痛い」

右腕をさすりながら体を起こすと、水嶋さんはまだ少し笑いながら「オーケー、わかったよ」と言う。

「じゃあ帰ろう。今日から一ヶ月よろしく」

そう言って差し出された左手を、私も左手で握り返した。

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