【完】秋
 …………楠谷。あの雨の日から数ヶ月、もうたっちゃんという呼び方を諌める言葉を聞くことはなくなった。しかし、私の名は呼んでくれず、相も変わらず楠谷のまま。

 つぐみって、昔みたいに呼んでよ。そう求めるのは簡単な筈で、きっと彼も受けてくれるだろうと思う。それができない理由は一つ。彼が呼ぶ私の名を、昔と同じ気持ちで聞ける気がしないから。その理由をまだ、自覚したくないから。

 きっと、彼の方から自然に呼び方を戻してくれれば、これ程もやもやすることはなかっただろう。しかしたらればは基本的に、叶わない前提でこそのもの。そもそもそんなことができる人なら、たっちゃん呼びをやめろ、など最初から言わない。


「ほら、明日が提出期限なんでしょ?早く書こ?」

「そもそも半分くらいしか読めてないんだよ……感想とか無理……」


 催促に返ってきた台詞は、流石に予想していなかった。現在このリビングは温かい麦茶が美味しく感じられる気温なのだが、そろそろそれを通り越して凍えてしまいそうだ。乾いた笑いが口の端から漏れる。

 甘やかすのはよくない。優しさと甘やかしは違う。二十回程そう自分自身に言い聞かせたところで、とうとう私は諦めた。この課題を彼自身で終わらせるなんて、もう無理だ。


「……たっちゃん」

「あ、はい」


 自分自身が驚く程に、重々しく響いた声。肩を跳ね上げ敬語で返した彼に、私は右手を差し出した。


「貸して」


 シャーペンと新しい原稿用紙は、既にテーブルの上から拝借済みだ。しかし彼の右腕の下敷きになっている本だけはそうもいかず、私から貸すように促した。だが対する反応は拒絶であり、彼は必死に首を横に振っている。

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