定時になるまであと5分
「……」
しばらくぼーっとしていた。
デスクに置いた数少ないものに書かれた自分の名前を見つめながら。
そしてふと、自分の旧姓が使われいるモノがこれだけではないことに気付いた。
時間に急かされて慌てて引き出しを開ける。
あった。
それを引き出しから取り出して、握ってみて。明日からもう使わないよなぁ、と思って、ごみ箱の中へ入れようとした。
「国橋」
低い声で呼ばれて振り返る。それは捨てられずに手に握ったまま。
夕日で赤く染まったオフィスには、誰もいないと思っていたけれど彼がいた。
「捨てるの、それ」
彼は見ていたらしい。そっと近くに歩いてくる。真黒なさらさらの髪が光で赤く透けてる。
私はわざとらしくないように、なるべく自然に笑いながら言った。
「あぁ、これ? うーん、まぁ、もう使うことないしなぁ」
「ふーん……」
「……なによ」
一度焦点を合わすともう自分からはがせない瞳が、何か、訴えているような気がした。
この瞳に勝てない。
観念して肩を落とし、私は言った。
「……国橋。言いたいことがあるならはっきり言ってよ」
私は彼のことを〝国橋〟と呼んだ。
これは完全なる偶然で、
彼の名前も〝国橋〟だ。
私たちは知り得る限り血縁関係にはない。まったくの他人。
けれど私も、彼も、国橋だった。
ーー今日までは。
私は今日、定時になったら婚姻届を出しに行く。
一緒に出しに行くのはこの男じゃない。