閉じたまぶたの裏側で
その日の夜、母から電話があった。

最近どうしてるのと尋ねられても、本当の事など何一つ話せない。


私の両親は海辺の町でペンションを経営している。

私が就職して家を出てから、父が故郷に帰って民宿を始めると突然言い出し脱サラした。

母は文句を言うどころか、民宿よりオシャレなペンションにしましょうと言って、嬉しそうに父について行った。

私も夏の休暇の時などに何度かそのペンションを訪れ、少し手伝ったりもした。

仕事の合間に客室から眺めたキラキラと光る海を思い浮かべて、不意に應汰と一緒に眺めた海を思い出した。

従業員の女性が結婚を機にペンションを辞めて相手の実家の商売を手伝う事になったので、新しい従業員を探さなくちゃと母は言った。

「お母さん…。私、会社辞めてペンション手伝おうかな。」

考えるより早く、その言葉は自然に私の口からこぼれ落ちた。

母は少し驚いていたようだけど、芙佳がそうしたいなら構わないと言った。

どうせもう、ここには私を必要としてくれる人なんていないし、目をそらしたいものはあっても、私が欲しいものなんて何一つない。

電話を替わった父にも、母に言ったのと同じ事を伝えた。

父は何も言わなかったけど、もしかしたら私がここを離れたい理由がある事に気付いていたかも知れない。


電話を切ってから、退職願を書いた。

もう泣くのはやめよう。

手に入らないものを望んだって、帰らない日々を悔やんだって、なんの意味もない。

自分の足で前に進むには、目の前の壁を避けて遠回りする事も必要だ。


傷がすっかり癒える頃には、きっと前を向いて笑えるだろう。



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