Mr.ハードボイルド



「そこでだ、この契約書にオマエのサインと捺印がほしいのだが」

そう言って、俺は封筒に入れてあった茶色い文字で印刷された方の紙をニーナに手渡した。
もちろん、その用紙には俺のサインと捺印もしてある。
彼女は手渡された用紙に目を遣った。
そして、両手で紙を広げたまま固まっていた。

しばらく沈黙の時間が過ぎた。
その間、俺は内心祈るような気持ちで、ニーナを見つめ続けた。
すると、彼女の美しい瞳から大粒の涙がポトポト音をたてて、デスクにこぼれ落ちた。

「と、トミー、こ、これ、これって……」

「あぁ、契約書だ。俺とオマエの人生の契約書だ。なぁ、ニーナ、いや、新名朋美、俺と結婚してくれ」

彼女は涙でくしゃくしゃの顔を俺に向けた。

「なぁ、頼むよ、朋美」

ニーナは震える手で『契約書』に彼女の名前を記入し、隣に捺印をした。
これで、俺たちの婚姻届という名の『契約書』は完成した。
彼女は俺に飛びついて涙を流し続けた。
俺はそっと彼女の肩を抱いた。

「あっ、そうだ。もうひとつ渡すものがある。これ、うちの社員章だ」

俺はそう言って、ポケットから小さな箱を取り出した。
そして、彼女の左手をそっと握りしめ、華奢な薬指にその『社員章』をそっとはめてやった。
薬指でその『社員章』は光り輝いていた。

「ありがとう、トミー、ありがとう……」

彼女は何度も俺の胸の中で鼻声のまま繰り返した。

「朋美、こちらこそ、ありがとうな」

俺は彼女の頭の上にポンと手を置いた。
彼女は俺の胸に埋めていた顔を上げた。
彼女の美しい瞳が俺を見つめた。
そんなことが、なんとなく嬉しくなって、俺の口元は自然と緩んだ。
俺たちはお互いの笑顔を見つめ合った。
彼女は顔を上げたまま、その美しい瞳をそっと閉じた。
なんか急に俺は照れ臭くなって自分の頭をかきながら口を開いた。

「あっ、そうだ。そういや、もう1枚用紙があったっけ。朋美、も、もしな、オマエが『退職』したくなったら、コレに名前書いてくれればいいぞ」

そう言って、俺は緑色の用紙、いわゆる離婚届という名の『退職願い』を彼女に手渡した。
先ほどまでの美しい瞳の朋美は一瞬にして消えて、鬼の目付きのニーナが現れた。
それを俺が認識した瞬間、俺は頬に鋭い痛みを感じた。
朋美の高速ビンタをお見舞いされていたのだった。

「トミーのばかぁ~!どうしてアンタは肝心な時にこういう悪ふざけするのよ~。台無しじゃない!」

だって、しょうがないだろ?
俺なんだからさ!

俺は彼女にぶたれた頬を摩りながら言った。

「なら、朋美、いらねぇんなら、そんな緑色の用紙は燃やしちまえよ!」

俺の言葉に彼女はコクリと頷いて、灰皿の上でその離婚届の用紙に火を点けた。

「よし、イイ覚悟だ。朋美、これで俺とオマエは死ぬまで一緒だぜ!」

俺は朋美の体を引き寄せて、灰皿の上の炎を見つめた。
そして、そっと彼女の愛おしい唇に自分の唇をあてがった。


< 83 / 93 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop