アルチュール・ド・リッシモン

リチャード2世

 同じ頃イングランドでは、そのアルチュール達の母、ジャンヌ・ド・ナヴァールをさらっていったヘンリー・ボリングロブが国王に即位していた。
 元々イングランドは黒太子エドワードとその父、エドワード3世が亡くなると、黒太子とジョアン・オブ・ケントの次男として生まれたコーンウォール公リチャードが国王として即位していた。今から遡ること23年前の1377年のことで、その時リチャードはまだ10歳の子供であった。
 それゆえ、叔父のケンブリッジ伯エドマンド・オブ・ラングリーが摂政として、実際の政治を行なっていたのだが、発言権はその兄のジョン・オブ・ゴーントの方が強かった。病床にあった黒太子やエドワード3世に代わり、政権を握っていたので。
 そこには、王位への欲望も垣間見えていたが、3年後の1380年のワットタイラーの乱をリチャード2世が鎮圧ひたこともあり、その更に3年後には親政を開始する。
 それに伴い、リチャード2世は叔父ジョンの息のかかっていない、マイケル・ド・ラ・ボールとロバート・ド・ヴィアを重用するが、叔父ジョンは男系子孫の継承のみとするサリカ法をイングランドでも適用するようにと議会に進言する。
 残念ながらその進言は聞き入れられなかったが、それに危機感を持ったリチャード2世は、自分にまだ子供がいないことが彼を益々増長させる要因であると考え、ジョンの兄である亡きライオネル・オブ・アントワープの外孫である、従甥の第4代ロジャー・モーティマーを後継者として指名した。
 しかし、彼の努力もむなしく、イングランドの王宮は混迷をきたす。
 1386年、ノッティンガム伯トマス・モウブレーとグロスター公トマス・オブ・ウッドストックがリチャード2世に対し、先に挙げた二人の側近のつぃほうを要求したのである。
 これに対し、リチャード2世は、一時は彼らの要求をのむと約束したものの、宮廷内の混乱が収まってくると、前言を撤回し、1397年には逆に追放を要求してきたノッティンガム伯とグロスター公を逮捕したのだった。
 この時、リチャード2世は既に30歳になっていた。もうそんな年なので「危ない橋の渡り方を学んだ」ともいえるが、彼の意見の変わりように、議会でも「信用できない」との意見が出始めていた。
 要するに、彼は自分で自分の首を絞めてしまったのである。
 だが、その状況にさえ気付かず、彼は暴走を続ける。
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