アルチュール・ド・リッシモン

アルマニャック派

 1405年───今から8年前にブルゴーニュ公ジャン無畏公は、パリを軍事制圧していた。食肉商のシモン・カボシュ率いるカボシャン党と手を組んで。
 そしてその2年後、1407年11月23日、彼は長年仲が悪かったオルレアン公ルイを暗殺したのだった。
 もっと正確に述べると、「犯人は不明」なのだが、「ジャン無畏公だろうと言われている」であるが。
 とにかく、これにより、オルレアン公の長男シャルルは、アルマニャック伯ベルナールを頼り、ジアン同盟を結んで、ブルゴーニュ公と対立した。───これがいわゆる「アルマニャック派」であったのである。
 そのアルマニャック伯ベルナール7世は、アルチュールの後見人であるベリー公ジャンの娘ボンヌ・ド・ベリーと結婚していたので、彼もまたアルマニャック派であった。
 後見人がアルマニャック派であれば、アルチュールも自然とそちらに属するはずであったが、ずっとジャン無畏公の娘マルグリットを想ってきたアルチュールは、そこまで踏み切れずにいた。
「お前はどちらにも加担するな! ただ、事実のみを報告してくれればよいのだ! それは、ギュイエンヌ公夫人とて同じ想いであろう」
 そんな弟の想いを汲んでか、兄のジャン5世はそう言うと、アルチュールはほっとした表情になった。
「承知致しました」
 アルチュールは明るい表情でそう返事をすると、その場を後にした。

 それから約半年後の8月4日、ジャン5世の懸念通り、アルマニャック派がカボシャン党からパリの町を取り戻した。
 一言で「町を取り戻した」といっても、一滴の血も流さずに出来ることではないので、カボシャン党にしろアルマニャック派にしろ、パリ市民にとってはどちらも「迷惑な奴ら」でしかなかったのだが。

 尚、この頃のアルマニャック伯は、自分を支持する貴族と一族郎党に白十字の紋章が入ったものを着せている。
 それゆえ、この頃パリを歩いていると、白十字の紋章をつけた男達が偉そうに歩いていたものと思われる。
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