桜の木の下に【完】

「実は、私が転校したいと思ったのには理由があるんです。あのまま普通の高校に進学してもよかったんですよ」

「え?そうなの?」

「はい」


私は笑って頷いた。

そもそも、なぜ私があの学校に通うことに決めたのか。

それは、わずかな温度差だった。

ほんのわずかの差が私に訴えかけた。


「一昨年、大きな地震があったじゃないですか」

「うん。東北のだよね」

「はい。東京の方はあまり被害が大きくなくて、被災者は少なかった…でも東北の方は違ったんです。今でも仮設住宅で暮らしている人がたくさんいます。でもここは何事もなかったかのようにけろっとしてます。元の日常がすぐに戻ってきました」

「そうだね」

「でも、お父ちゃんたちは何ヵ月間も遅く帰って来てたんです」


事態の収拾に多くの時間を費やしていた。こっちは短時間で収まっていたのに。

あの地震は海に暮らす野生の幻獣が起こしたもので、とても大きな…例えるならクジラのような幻獣だと言っていた。

そのクジラが暴れて、地震が起きて、津波も起きた。家がたくさんそれに飲み込まれて、人も流されて、跡形もなく消えてしまった。

高台に登ってその光景を見てたある人はテレビで言っていた。


『手だよ、手。大きな手が家とか掴んで海に引きずりこんだ感じに見えた』


それを珍しく一緒にご飯を食べていたお祖父ちゃんに聞いてみたら、大きく頷いていた。


『そうじゃ、手じゃよ。幻獣が手を陸に伸ばして捕まえたんじゃ…』


幻獣は怒っていたという。

その理由は人間の今までしてきた水質汚染。

ゴミはもちろん、工場や住宅の生活排水。

化学物質が海に流れ込んで、汚くさせていた。クジラは海の水の汚れを食べて綺麗にしてまた海に戻す、という自然に優しい幻獣だった。

汚れがエサだったら別にエサが増えても怒らないのでは、と思ったけど、私がわかってないような顔をしてたんだろう、お祖父ちゃんは諭すようにして静かに言った。


『そうじゃのう…例えば、雑草を抜くとする。一人よりも二人、二人よりも三人、と大勢でやった方が早く終わり仲間がいるからはかどるじゃろ?でもヤツは違った。一人で黙々と何年も浄化していたんじゃ。それほど虚しいことはないと思わないかな?雑草を抜いた瞬間からまた新しい雑草が生えて来るんじゃから』


終わりのない作業が延々と続く。

海の生き物のため、人間のためにしてきたことが…報われない。

食べても食べても無くならない、クジラにたまった化学物質はいったいどこに消えるのか。


『消えはせん』


お祖父ちゃんにはっきりと言われて泣きそうになった。

お祖父ちゃんも悲しそうに眉を下げていた。


『消えはしないんじゃ。ずーっと蓄積されるだけよ。蓄積されてヤツはどんどんと大きくなっていったのじゃ』


肥大してしまったクジラは暴走し、大災害に繋がった。

ストレスを発散したクジラは小さくなったけど、怒りは収まってなくてしばらくはお父ちゃんたち大人が説得したという。

浜辺のゴミを拾ったり、海の中を片付けしたり。

あとは、大きな船を一隻用意した。それと、新鮮な栄養が海に流れるようにするために川を新しく引いた。

船は魚たちの隠れ家になる漁礁にするためで、魚の乱獲もクジラの怒りの原因になっていたと気づいたからだ。

クジラはそれを大人しく海に浮かせると、波を被せて海底に沈ませた。

すると、今までが嘘のようにしーんと海が静かになった。潮も引いて、元の姿に戻った。

でも問題はあった。またここに人間が住み始めたらまた海が汚れてしまう。

そのことの対策をどうするか…と考えたときに、原発問題が上がった。


「知ってましたか?放射線はもう下がってるんです。漏れた放射線はほんの僅かなんですよ」

「そうなの?基準値がどうのこうのって言ってて風評被害とかスゴかったじゃん。今もちょっと引きずってるよね」

「今でも野菜が売れなかったり、引っ越したくないと住み続けている人もいますが本当は問題はないんです。だからウチでは…というより、その事情を知ってる人はせめてと皆野菜買ってますよ。それを知ってるからこそ、私は居心地が悪くなったんです」


東北は関東の人たちにとって遠い場所、関係のない場所。

関東だけで賄える。でも東北は東北だけでは賄えない。

支援が必要だった。でも、関東の人は野菜を買わなかった。

なんなんだ、この温度差は。

支えるべきときに支えず、事の大きさを重要視せず、風評、自粛という言葉がニュースを飛び交う日々。そして、徐々に忘れ去られていく惨劇。

私は、普通の人とは違う立場にいるのだと、そのときに深くショックを受けた。


「だから、幻獣のことを知ろうと思って高校はやめたんです」

「ごめん、なんか…私も知ってれば野菜買ったのに」

「早菜恵さんが謝る必要はないですよ。誰も悪くないんですから。暴れたクジラにも、隠す私たちにも、忘れる人たちにも」


そう、誰も悪くなかったんだ。
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