二十年目の初恋
事件 2
 理事長室のドアの前に立ち……。大きく深呼吸を一つ。

 蟻地獄を前にした蟻の心境? いや。自分から好んで落ちるバカな蟻はいない。

 ウスバカゲロウなんかに負けるもんか!!

 意を決してドアをノックした。

「はい。どうぞ」
 中から、おぞましいくらい優しげな声が聞こえた。

 ドアを開けて部屋に入る。

「失礼致します。副学長から、こちらに伺うよう言われて参りました」

「待っていたよ。きょうは宜しく頼みます。難しいことはないし、君なら居てくれるだけで充分だ」

 トムソンガゼルのような優しげな表情で。その裏にどんな知らない顔を隠し持っているのだろうか……。

 この理事長の一言で大学職員の首など簡単に飛ぶ。


 誰が見ても一目で分かる高級そうなスーツに身を包んだ紳士。年の頃なら四十代後半くらい?

 学生時代はラグビーの選手だったそうで、思ったより逞しい体格。

 ソフトな身のこなしは元公爵だか男爵だかの家系から来るものか? 

 男爵なんて、じゃがいもくらいしか知らない。

 とにかく、きょう一日……我慢。……がまん。……ガマン。


「これは、きょうの資料だから、軽く目を通してください。まあ経営者側のシンポジウムだから君が聞いても面白い物でもないと思うけれど」

「はい」

「そこのソファーに掛けていいですよ」

「分かりました」

 ソファーに座って資料を見た。『これからの大学経営』本当、面白くなさそう……。

「早めに昼食を取って、私の車で出掛けましょう」

 私の車って当然、運転手付きの高級車。菊の御紋でも付いていそうな神々しさ……。

「私は助手席で……」

「いや。後ろに乗りなさい」

 出来る限り離れて座った……。


 興味の無い退屈なシンポジウムは、四時間も掛かってやっと終わった。

「お疲れさまでした」
 本当に疲れたわ。私が……。

「君こそ、慣れない会合で疲れただろう?」

「いいえ。仕事ですし、そのようなことはございません。それでは私は、これで失礼させていただきます」


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