彼は誰時のブルース
ゾク、と背筋が凍った。彼の気迫に、自然と足が一歩後ろに下がった。彼は声を荒げていないのに。
間髪入れずに宇野は一歩を詰めた。
「人と話す時、ましてあんたから話しかけてきたんだろ?普通はもっと距離縮めて、相手の目見て話すだろ」
なあ、という低い声に、浮ついていた私の焦点は宇野泰斗の目に合った。
怒っていた。彼の顔から、その感情が滲み出るのを見たのは、初めてだった。
「逃げるな?」
途中で宇野の声が掠れる。鼻で笑った彼は、真顔になって私に真っ直ぐ眼光をぶつけた。
「それはあんただろ」
私は驚いていた。
彼は、もっと気の弱い性格だと思っていた。
彼と少しだけ付き合ったと話すクラスの女子が、教室で得意げに喋っているのを聞いたことがあった。『宇野は見た目だけで、性格が地味でつまらない』って。
だから、彼がこんな風に感情をぶつけてくる人だと思っていなかった。
彼は私を真っ直ぐに見下ろした。その瞳は苛立ちを隠せないように、数回まばたきを繰り返した。
「仮に。あんたが何をしようと言おうと。痛くも痒くもない。そもそも、誰もあんたなんか見てない」
彼は唇を舐めるように口を閉じた。口の端が切れている。血が出ている。その周りが少し青い。痛々しそうで目を逸らした。
「思い上がるな」
言葉が出なかった。知っている。取るに足らない存在だってことは。もう随分前から知っている。
眼前にある事実を突きつけられて、謝ることも許されない。いや、許されなくてもいい、とにかく謝りたかった。胸のつっかえを楽にしたい。
それだけだったのに。