キミが欲しい、とキスが言う
2.寝息は過去を呼び起こす

 電車を降り、歩くこと十分。古臭い三階建てのアパートが見えてくる。

 ここは浅黄が四歳になった年に移り住んだアパートで、部屋は二部屋ある。
階段の手すりには錆が見られるし、全体にギシギシと軋むような音がして安全面で不安はあるけれど、ここを選んだのは実家に近いからだ。私が不在の時、浅黄には頼る人が必要だから。

 私の家は、二階の階段側の角部屋で、見るとドアノブに紙袋がかかっていた。
鍵を開ける前にスマホの明かりを頼りに中身を確認すると、手紙と洗剤ひと箱が入っていた。

【引っ越します。お世話になりました 中島】

隣に住んでいた中島さんだ。子供ができないご夫婦で、私と同年代だった。

最近ではなくなってきていたけど、移り住んだばかりのころは浅黄がよく泣いてうるさかったから、何度か謝りに行ったことがある。

奥さんは優しい感じの人で「いいのよ」と言ってくれたけど、旦那さんの方はいつも不機嫌そうだった。
子供がいないことを引け目に感じている人の隣で、子供を泣かすのは本当に忍びなかった。

「そっか、引っ越したか」

ほっとした気持ちになる自分にいやらしさを感じるけど、仕方ない。
世の中には、どうにもならないことが多すぎるのだ。

< 17 / 241 >

この作品をシェア

pagetop