キミが欲しい、とキスが言う

「おはよ、茜さん」

「……おはよう」


不覚にもドキドキしているのが、自分でわかる。欄干に体重を預けて立つ彼と私の間には五センチ程度の隙間しかない。触れてしまったら何かが動き出しそうで、落ち着かない。


「暑いね。今年も猛暑かな」

「ああ、そうね。そういや、もうすぐ夏休みだわ」


小学生を持つ母には最大の難関だ。
昼間はちょこちょことしたモニター仕事があるし、幸太くんがいるからと、去年は学童保育に預けた。
でもそれも、朝にお弁当を作らなきゃならないから忙しさで言えば一緒だ。今年はどうしよう。


「夏休みか、いいなー、子供は」

「大人になるとないものね」

「飲食店だから特にね。お盆つったって休みじゃないもんな」


むしろ稼ぎ時だろうしね。
私も、その時期は帰省客との飲み会の二次会で流れてくるお客が多いので、あまり休みが取れない。


「そうよね。まとまった休みなんてないんじゃないの」

「頼めば連休くらいはもらえる。橙次さん、結構甘いから」

「そうなんだ」


馬場くんが体をこちらに向けると、頭のすぐ上で声がするくらいの距離になる。それだけで心臓がどきんと跳ねた。


「浅黄も連れて、どっか行かない? レンタカー借りれば遠出もできるし」

「浅黄も?」

「夏休みでしょ? 家族旅行というやつ」

「家族じゃないでしょ」


私たちまだ付き合ってないよね? と確認するように上目遣いで伺う。

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