死刑囚「久山郁斗」の啓示
久山郁斗
 街を出て一時間。浜田先輩の運転するライトバンは田んぼに囲まれた村から、さらに山の中腹へさしかかった山道を進んでいた。深く生い茂る木々に初夏の日差しが和らぎ、車の窓を閉め切っているにも関わらずコケの生した匂いが車内に立ちこめる。虫の声が次から次へと素早く通り過ぎていく。

「浜田先輩、ミティ・ドーラって何です?」
「ミティ・ドーラは今から行く精神病院の隠語よ」

 顔を正面にしたまま彼女は答えた。

「そこに何をしに行くんです?」
「春川時彦の孫に会いに行くのよ。彼はあそこにいるから」
「犯行声明で名指しされていた人……護衛です? それとも捜査です?」
「……小畑。ここからは心して聞いてちょうだい」

 角度のきついカーブに備えて車が減速された。切られるハンドルに操られて車体が方向を変える。緑色の真ん中にポツンと白い大きな建物が現れた。きっとあれが精神病院だ。

「私たち強行犯係特別対策班の本来の任務は、久山郁斗に関連する事件と春川時彦の孫に関連する事件のために作られた特別班なの」
「久山郁斗に関する事件はわかるような気がしますが……その、春川時彦の孫って誰です?」

 春川時彦という人物は日本の総理でも国会議員でもない。要人関係者でもなく、犯罪史に残るような犯罪者でもない彼は一体……?

「紫ヶ丘保育園事件。あの犯人の久山郁斗が春川時彦の孫なのよ」

 思わず首をひねって浜田先輩を凝視した。
 私に一瞥をくれて彼女はハンドルを切る。

「久山郁斗は死刑になったはずです!」

 自動調節になっていた車の冷房が車内温度の上昇を感知して風量を上げた。浜田先輩は上に向けていた風向口を自分の顔の方へ向けた。

「書類上は、ね」
「彼のために法改正までされたんですよ!」
「彼以降の未成年犯罪者は全員、成人と同じ刑事罰を受けているわ」
「久山郁斗が春川時彦の孫って、意味が分かりません!」
「事件当時、彼は未成年で顔も名前も報道されなかったけれど、法律が変わって名前は知れ渡ってしまったから改名したの。今、彼は春川一色で戸籍登録されているわ」

 割れたアスファルトの上をタイヤが通り、車体が揺れた。

「何を……言ってるんですか浜田先輩。私が新米だからってからかってるんです? あり得ないです。日本の司法がそんなに甘いものじゃないってことくらい知ってます。犯罪者が、あまつさえ裁判で死刑を受けた死刑囚が罰を免れて、新しい戸籍の取得をするなんて、あり得ません!」

 冗談キツいです、最後にそう付け加えて笑ってやった。
 車内が沈黙して数十秒経った。普段なら、こういう法律的にも絶対にあり得ない事案のことでも私が正解しようものなら「あら、アンタ意外と勉強してるわね! えらいわ」なんてウザイくらい褒めてくるのに……。
 先ほどよりも車内に満ちる緑の匂いが濃くなっているような気がした。車は変わらずカーブの多い坂道を上り続けている。
 谷向こうに見える、白い建物に目をやった。

「……本当に、久山郁斗は生きているんです?」
「生きているわ、春川一色として」
「そんな……。なぜ……。彼は、大量殺人犯じゃないですか……幼い保育園児たちを殺し、その母親まで殺し、職員も殺して、三七人もの命を奪った凶悪犯ですよ!?」

 無意識に握った手の指先が冷たくなっていることに気がついた。肩を押さえて冷房を消しにかかる。
 紫ヶ丘保育園事件が起こった時、私は保育園に通う年齢だった。偶然見てしまったニュースで事件を知ったときの戦慄と衝撃は今でも鮮明に覚えている。自分が毎日行く場所で大人も子ども殺された。世界で一番強いと思っていた父親と母親でさえ、犯人の少年には敵わないのだと思い知らされた。そして幼い自分はいとも容易く殺されてしまうのだと体の底から戦慄き、私はしばらく保育園に通うことが出来なくなった。
 もちろんそれは私だけではなかったようだ。登校拒否を起こす子から、我が子の命を奪われる恐怖を抱いて義務教育も一ヶ月以上通わせない親が相次ぎ、日本中で学級閉鎖が起こったと、警察官学校に入って知った。当時十四歳の少年が起こした事件は、法改正だけでなく、人々の生活と心にまで影響を与えたのだ。もちろん私の心にも。
「特別対策班は今をもって通常任務に移行するわ」

「春川時彦の孫の正体は久山郁斗なんですよね!? なんで情状酌量を利用して罪を償いもしない人のために私たち警察が動かなきゃいけないんです!」
「仕方ないわ、私たちは命令に逆らえないもの。どちらにしろ久山郁斗の名が殺しに関わっているのだから動くのよ」
「納得いきません、上に掛け合います!」
「本部長より上に……?」

 視線を下げた。私たちに命令を下した本部長は県でトップの存在だ。彼より上にいるのは霞ヶ関や桜田門の本部長以上の官僚やキャリアのみ。血縁関係もなく、大学も出ていない私なんかにコネがあるもはずもない。第一、本部長が「上の意向」と言ったのだった。上がいないほどの上官からの命令……。

「……先輩は以前にも彼と会ったことがあるんです?」
「そうね。何度かね」
「浜田先輩は最低です!」

 体ごとそっぽを向け、窓の外を眺める。助手席側は山側の斜面に面しているため、木や葉、湿った地面、コケだらけの岩が順番を替えて私の視界を通り過ぎるだけだった。

「アタシもアイツと初めて会うことになったときは同じように思ったわ」

 開けられる車窓から入ってきた暖かな空気を吸い込む。湿気が少しだけ気持ちを楽にしてくれた。

「……すみません。浜田先輩の気持ちまで考える余裕がありませんでした」
「いいのよ。アタシはアンタの上司なんだから」朗らか笑顔で彼女は付け加えた「そういうバカみたいに真面目なところ、好きよ」と。

 車から降りて白い病院を見上げた。六階建ての、下から上まで真っ白なマッチ箱を連想させる建物。少ない窓の全てに鉄格子が付けられている。驚いたことに、こんなに山の中にあるのに駐車場には多くの車が止められていた。

「ここはね、精神・心療内科の日本的権威の前会長が開業した日本屈指の病院なのよ」

 病院に入りながら浜田先輩が説明してくれた。
 自動ドアをくぐると一人の四〇代過ぎの女性が靴箱の前で立っていた。じっと赤い靴を眺めたまま動かない。
 スリッパに履き替え、もう一枚の自動扉をくぐった。病院の中は冷房と消毒の匂いが相まって少し寒いくらいだった。待合室では駐車場に置かれた車の数よりも明らかに多い人が順番待ちをしている。緑色のビニールベンチに空きは数カ所しかない。番号が院内アナウンスされた。一人の男性が立ち上がる。女性看護士さんがタイミングよく診察室の扉を開けて「こっちですよ〜」と手招きをした。
 受付に行くとすでに話は通っていたようだ。すぐにピンクのスーツ姿の女性がやってきて案内を始めた。首に“副院長”と書かれたプレートを下げている。歳は四〇前後だろうか。

「お久しぶりですね、浜田さん。三年ぶりですか? 女性職員はみんな浜田さんが来るのを首を長くして待っていたんですよ」
「待たれても困るわ。心は女だもの」

 副院長は笑ってエレベーターに乗り込んだ。あとに続く。

「あら園田さん、ついてきちゃダメよ。今から最上階に行くの」

 振り返った。私の顔のすぐ目前に中学生ほどの男の子の顔があった。目を見張り、上半身を仰け反らせた。一体いつから後ろにいたのか、全く気配を感じなかった。
 目の前の彼は俯いたまま表情を崩さない。

「園田さん、降りないと一番上まで行っちゃうわよ。次のエレベーターに乗ってね。わかりましたか?」
「……わかりましたぁ」

 彼が降りるのを見計らって“閉”ボタンが押された。
 副院長は首に下げているパスケースからカードを取り出し、カードリーダーに通した。さらに隣にある数字がランダムに押されると階数ボタンにはない七という数字が液晶に表示された。箱が上昇する感覚があった。

「浜田さんは必要ないかと思いますが、新人さんもいらっしゃるので一応説明させてもらいますね。強化ガラスの部分から彼の様子は観察可能です。資料を渡すときは配膳用口を使って、彼が一メートル以上離れていることを確認してからにしてください。彼にはペンはもちろんハードカバーなど、固さがあるものは決して渡さないでください。基本の愛称はイチですが、好きに呼んでいただいて構いません」

 副院長の抑揚のない説明口調に汗が背中を伝う。ブラのホックで雫の感触が消失した。
 減速したエレベーターが停止し、扉が開いた。真っ白い壁に挟まれた廊下が前へ続いている。奥にはコチラに向かって一台の監視カメラが設置され、真上にもコチラから奥に向かってレンズを向けるカメラが備え付けられていた。また中を観察するためだろう、廊下の壁の真ん中には床に達するほど大きなガラス窓がある。ただし今はブラインドで閉められていて中は見えない。
 エレベーターを出てすぐにある、インターフォンを副院長が押した。

「イチくん、警察の方がきましたよ」

 返事は返ってこない。再びインターフォンが鳴らされる。

「聞いていますか? ブラインドを開けますから」

 インターフォンボタンの横にあるオレンジ色のボタンが押されるとブラインドが上がりはじめた。生唾を飲み込む。約一五年前に日本を、いや世界を震撼させた殺人鬼は一体どんな顔なのだろう。どんな雰囲気を持っているのだろう。
 真っ白な部屋の真ん中に、三七人もの命を奪った殺人犯の姿はあった。
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