わたしの朝
孤独に差す光
夜中、救急車のサイレンの音にうなされて目が覚める。
初めて病院に運びこまれた時、私は顔面蒼白、意識不明の重体だった。
調べてみると、頭蓋骨複雑骨折、右脳陥没、脳挫傷、急性硬膜下血腫で、生死をさまよう極めて危険な状態だった。
10時間に及ぶ緊急手術の末、私は頭を180針縫い、髪は刈られた上に抜け落ち、とても女の子と呼ぶには痛い姿になってしまったが一命は取りとめた。
これぞ九死に一生というものだ。
だから、どんな障害が残っても仕方がないのだけれど、医師の口を先について出たのは余命宣告だった。
「娘さんは、半年もつかどうか…」
それが私に向けられた余命宣告の序章だ。
それから私は5回の余命宣告を受け、切り抜け、今も宣告された命の期限に向かっている真っ最中だ。
余命宣告に初めてだの、序章だの、そんな言葉が付くのはおかしいなと、少し笑えてくる。
20歳でこれほど余命宣告の言葉を聞き慣れてしまったのは、私くらいなんじゃないかとも思う。
なんなんだ、この気まぐれ生命力め。
私が今生きているのは、まさに奇跡だった。
けれど、誰もが予想したように、私の脳には後遺症が残った。
右脳の無機能による乖離と脳機能不全。
いつも合併症のリスクと隣り合わせの生活が、私を待っていた。
それなのに交通事故に逢った年齢が幼すぎて、どこまでがもともとの個性で、どこからが後遺症なのか、判断しかねるという理由から病名はつけられず。
実際に周りと同じことをするように求められた時、私には難しくてできないことや理解できないこともあったけれど、認められず。
特別な配慮や援助も受けられず。
孤独といつくるかわからない後遺症と余命宣告に耐えた。
同級生にいじめられ、先生には呆れながら叱られた。
そんな学生時代だった。
そんな私に、脳の病気と障害者としての立場が認められたのは、社会人2年目に入って割とすぐのことだった。
けれどなんだかんだ言って、私はまたここでも宙ぶらりんな、障害者としては肩身の狭い思いをせざるを得なかった。
国からの援助は多少得られるようになったが、世間の目は依然として、いや以前にも増して冷ややかだった。
まして、命の期限が迫られた今になって。
彼がいなければ、私はどうなっていたのだろう。
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