わたしの朝
わたしの中のわたし
とはいえ、私は病気と闘うという表現が好きではなかった。
“闘う”つもりなどさらさらなかったからだ。
もしも、治る病気だったのなら、もしかして状況は変わったかもしれない。
けれど、愛はこの病気が一過性のものではないと知っている。
一生のものだと。
だから、付き合うという言葉をわざと選んで使った。
病気も含め、私なのだと。
この病気でなければ、今の愛は存在しないとさえ言える。
逃げ道などではなかった。
生後半年の頃から四六時中、朝起きてから夜寝るまで常に一緒にいる病気だ。
それは時に愛を苦しめたりもしたけれど、言ってしまえば誰よりも長く誰よりも傍で愛を見てきた。
友だちみたいなものなのだ。
憎もうにも憎めまい。
むしろ、感謝さえ抱いた。
病気があったから出逢えた人、病気になったから感じた“生きる”ということ、病気になったから気づけた幸せが、たくさんあった。
前に、「花」という詩を書いたことがあった。
“花のように
太陽を見て力湧くような
元気な人になりたい

花のように
雨を浴びて癒されるような
爽やかな人になりたい

花のように
風を受けて踊るような
楽しい人になりたい

花のように
土を蹴って立ち続けるような
強い人になりたい

花のように
月を背に輝くような
明るい人になりたい

花のように
岩地でも誰かを待てるような
けなげな人になりたい

花のように
死ぬ間際まで誰かを笑顔にするよ
うな
美しい人になりたい

あなたの傍に咲く
花になりたい”
野に咲く、名もない花のように。
それが目標だった。
そして、今の痛みを誰かを心から想う愛に変えなさい。
それが私の名前の由来だと、自分では思っている。
名は体を表す。
そんな人になれるだろうか。
私は傲慢になるために病気になったんじゃない。
不幸になるために病気になったんでもない。
人の痛みや苦しみや悲しみを理解なんてできなくても、心の奥で泣いている人の傍にそっと寄り添うことができるように病気を与えられたんだ。
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