あなたのヒロインではないけれど




なぜか、氷上さんは一瞬無表情になった。まるで、全ての感情を凍りつかせたように。


そして……


私から目を逸らすと、どこかへ視線を移す。それを追いかけると……彼のその先にあるのは、夏の太陽に輝く海だった。


「……いませんよ、そんな人は……」

「え」


私は信じられない思いで氷上さんの横顔を眺めるけれど、彼は軽く瞼を伏せて元を歪める。フッ、と吐いた息は自虐か。諦めか。そんな空虚さを感じた。


「ぼくには、いません。そんな心配をするひとも……大切なひともね」

「…………」


さあっ、と風が吹いて氷上さんの柔らかそうな栗色の髪を揺らす。その額にうっすらと傷痕があるのを初めて知った。


もう一度開いた瞳に浮かんだ色は、ひどく悲しげなもの。海を……どこか遠くを眺める彼の心は今、ここにはない。それがはっきりと判る。


心に、ピリピリとした痛みと……それと同時に。やるせない悲しみを抱えた彼を少しでも良いから、慰めたい。そんな大それた願いを持ってしまった。


私を騙すために嘘をつくような人じゃない。それに、この痛ましい表情と空気が彼の本心を何よりも表してる。


私が再会して初めて本当の彼に触れたのが、これというのは悲しいけれど。やっと本物の氷上さんを知ることができた。


だから……馬鹿な私は。


彼を慰められるなら……気持ちを和げられるなら。そんな小さな決意をしてしまった。


「……わ、わかりました……なら……今日だけは……氷上さんのリクエストにお応えしますから。何でもおっしゃってください」
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