甘いささやきは社長室で





いつものように出勤してきた会社で、エレベーターに乗り込むと、つい11階のボタンを押そうとして思い出したように12階を押す。



そうだ、今日から私はあの秘書室が仕事場だ……。

壁を一枚隔てた向こうにあの男がいると思うと、仕事どころではなくなってしまいそうだけれど。



はっ!ていうか、昨日私ケーキ落としたまま帰ってきちゃった!

高級レストランのケーキ……もったいないことをした。あの男の好意はどうでもいいけれど、食べ物を粗末にしてしまったことは悔やまれる。



そう考えているうちにエレベーターはポンと音を立て止まり、私は12階のフロアへ下りた。



桐生社長はもう来ているだろうか。それともゆっくり来るタイプだろうか。

一応社長相手だし、気まずくとも挨拶くらいはしておかなければ。



気乗りはしないけれど仕方ないと自分に言い聞かせ、私はコンコンと社長室のドアをノックした。



「……おはようございます、桐生社長。失礼します」



返ってこない返事に、勝手にドアを開けると社長室の中を見渡す。するとそこはがらんとしており、荷物は置いてあるものの本人の姿は見当たらない。

あれ、いない……どこ行ったんだろう。

そうキョロキョロと辺りを見回した、その時。



「誰をお探しですか?お姫サマ」

「ギャッ!!」



突然耳もとでささやかれた低い声に、驚き飛び跳ね振り向いた。

するとそこにいたのはやはりというかなんというか……桐生社長で、まったく気づかなかったけれど、背後から近づいていたらしい。



急いで距離をとるように離れた私に、今日は紺色のスーツに水色のネクタイを合わせた彼はにこにこと笑って部屋に入るとドアを閉めた。



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