平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
「優しいんですね」

頼りがいのありそうな広い背中を姿を見送ってからわたしが言うと、希さんは手をひらひらと顔の前で振る。

「違う違う。妊婦なんて扱ったことがないから、ちょっとビビっているだけなんですよ」
「やっぱりおめでたなんですか。もしかしたらって思っていたんですけど」

違っていたら失礼極まりないから、自分からは言い出せなかったのだ。

「いま6ヶ月なんですよ。私、背が高いからあんまり目立たないみたいで」

愛おしそうに下腹部をさする様子は、もう優しいママの顔になっている。わたしは向かい側の椅子を勧め、彼女は恐縮しながらもそこへ腰を落ち着かせた。

「もう安定期だから大丈夫だと思ったんだけど、さすがに身体が重くて。思い通りには動けないものですね」

いやいや、あれで? と驚いたものの、自分には経験の無いことなので苦笑を浮かべてお茶を濁す。
すると、店長さんが希さんの分の湯飲みとキュウリの浅漬けをテーブルに持ってきた。

「あ、もう閉店ですよね」

残りのビールを大急ぎで呑み干そうとしたわたしを、店長さんがやんわりと止めた。

「大丈夫です。こいつがうるさいかもしれませんが、ゆっくりしていってくださいね」

照れくさそうに笑ってそう言うと、また奥へと戻っていく。

「あれ、かなり喜んでますよ、きっと。味を褒めてもらったから」

お新香の乗る小皿をわたしのまえに移動させながら、希さんはくすりと小声で笑う。

「それにわたしも嬉しくって。定食屋に若い女の子一人で入るの、抵抗ありませんでした?」

指摘されて初めて気がついた。考えてみれば初体験だったかも。

「あまり気にしてませんでしたけど……。和風のカフェみたいで入りやすいですよ。中も落ち着いていて居心地好いし」

あらためて店内をぐるりと見回す。もしここでコーヒーでも出されたら、時間を忘れてのんびりと過ごしてしまいそう。
感じたありのままを伝えると、わたしの感想がよっぽど嬉しかったのか希さんの顔が柔らかくほころんだ。

「ありがとうございます。ぜひ、またいらしてくださいね」
「もちろんです」

ただし、お財布と相談しながらですが。ひとり暮らしOLの寂しい懐事情は、心の中で呟くに留めておいた。


そうしてわたしは、美味しいご飯とタダ酒に気分良く橘亭をあとにした。

エントランスに回り届いていたダイレクトメールを取りだして、何気なく並んだポストの表示を見やる。
と、201号室にまだ真新しい表示で『橘』という文字を見つけた。
201の真下は橘亭だ。開店に合わせて引っ越してきたのかもしれない。ぜんぜん気づかなかった。

自宅と職場の往復で終わってしまう単調な毎日。

橘亭は、そんなわたしの生活に変化を与えてくれる、新しいスパイスになりそうな予感がしていた。
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