桜前線
全てが始まり、全てが終わった日
元々僕と晴花は同じ病棟で入院していた病院仲間だった。
年齢やベッドが近いことから僕らは一際仲がよかった。
ただお互いに病気は違っていて、僕は心臓、晴花は呼吸器に問題を抱えていた。
病気柄、ハードな動きは厳禁だが僕はなるべく定期的に外へ出て、太陽を浴び土や草に触れるよう、指示が出ていた。
精神的な安定が、心拍数安定への近道だそうで。
一方の晴花は、人工呼吸器が手放せず常に吸う空気の成分は調整されていて、無菌室ではないものの院外の空気を吸うことは許されていなかった。
あの日もちょうどこんなふうに天気のいい小春日和だった。
そうだ、僕が人殺しになったあの人だって。
いつものように病院の中庭を10分散歩して、いつものように晴花のベッドに向かった。
普段となにも変わらない1日がその日も過ぎるはずだった。
大きなスケッチブックにたくさんのクレヨンを並べて絵を描く。
僕はいつもよりキラキラして見えた太陽やピンクの桜に気分が高揚し、その様子を興奮気味に話しながらクレヨンを走らせた。
それがそもそもいけなかったのだ。
「晴花も、見たいなぁ。お外でキラキラ、ヒラヒラ、見たいなぁ。」
晴花の目は真剣だった。
握っていたクレヨンがポキッと小さな音を立てて折れた。
「行こう」
次の瞬間、僕はそう言っていた。
うん!と言うと、晴花の顔がぱぁっと明るくなった。
あの時の僕らに迷いなんてものはなかった。
ナースステーションの前を回避して、驚くほど誰にも気づかれずに外に出た。
「わぁ……。」
晴花は息を呑んで目を細め、僕も1人の散歩と違う喜びを感じて微笑み返した。
「サクラ、綺麗だろ?」
そう言っても晴花は返事をせずに、花びらを散らす桜の木を見つめていた。
全てが大成功に思えた。
「それ、外してみるかい?外の空気、吸ってみるかい?」
あまりの気持ちよさに、この言葉が全てを奪うことになるなんて一雫も考えずに、そう口をついていた。
晴花は目をパチパチとしばたかせて、大きく頷いた。
僕に自分をゆだねた晴花の呼吸器を、僕はゆっくりと外した。
「優くん、あったかい匂いがするよ。優くん、ありがとう。晴花、優くんがだぁいすき。晴花、幸せだよ。」
「それは春の匂いだよ。春の風が運んでくるんだ。……僕も晴花が大好きだよ。」
僕は今まで見たことのない大きな笑顔を晴花が見せてくれて、それを見れるのは僕だけで、正直得意な気持ちになっていた。
病気と毎日向き合う僕らを褒めるように、幸せわ噛みしめる僕らを祝福するように、桜の花びらは風に舞って僕らの頬を撫でる。
本能的にこんな時間が永遠に流れるような気がしていた。
でもそんな時間は一瞬にして去ったのだ。
「優、くん、晴花、先、戻って、る、ね?」
途切れ途切れの弱々しい声で、やっと一言を話した晴花に僕は慌てて向き直った。
気が気じゃなく僕は呼吸器を晴花にはめた。
1つ1つの細胞が縮むような感覚がした。
「大丈夫、だよ、少し、息が、苦しい、だけ、だから。」
息を荒らげながら、晴花は僕を慰めるように何度も大丈夫だと言い続けた。
周りがざわついているのはわかったが、僕はもう誰かを呼ぶことすらできなかった。
僕のせいで始まったことなのに、次の朝陽も一緒に見たいと願うのに、一方ではもうダメだと絶望していた。
僕らを長い間冷たい静寂が包んでいた。
「優くん、なかないで。晴花、幸せだよ。」
「僕も、幸せだよ。」
必死で涙を堪え、涙声で返した。
晴花はほっとしたように微笑むと、それきり呼吸器を曇らせなかった。
看護師さんが飛ぶようにやってきたのはそれとほぼ同時だったと思う。
それからの数日間は空白で、ほとんどなにも覚えていない。
「晴花、本当に嬉しそうな顔をしていたわ。」
「優介くん、ありがとうな。」
晴花の両親が僕にそう言った。
誰も僕を責めない、責めてくれない、それが余計につらかった。
あれからずっと、僕は周りにどれほどの人が溢れかえろうと1人ぼっちだ。
晴花の笑顔を壊したのは僕で、最期まで笑顔でいてくれた晴花の幸せを奪ったのも僕だ。
そんなことを思い出し考える度に、涙はとめどなく溢れて止まらなかった。
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