唇トラップ

the night _ 4







“見たの?”






今更になって、さっきの一言が甦った。
あの状況で、こんな私。

見たのか、と言われれば。
それはもう、あの事しかないはずで。



『…な…んで、知ってるの…』



絞り出した声は、ほとんどが掠れた息だった。


一瞬、柔らかく吸われた唇。
優しく啄むようなその仕草に、思わず背中の力が抜けて。



『…だからっ、だからなんでっ…』



また一瞬、吸われる唇。
離れるその一瞬、無意識に開く自分の唇に気づく。

私、いま。いま、きっと。
彼の唇を、追おうとした_____








ゆっくりと、エレベーターの扉が開く。
B2階の、白々しい蛍光灯の光が、小さな箱に入り込んでくる。



降りるのか、降りないのか。
私と彼の顔を交互に伺うように、扉はおとなしく開き待って。


静寂の音が鳴った。
ほんの数秒が、世界を止めた。








『…はな、して…』




明るく照らされる、彼の左側と。
逆光で闇に埋もれる、彼の右側。



持ち上がる口角の反対側は。
同じように微笑んでいるのか分からない。









「忘れさせてやるよ。」




囁くような声に導かれて。
その時初めて、彼の顔を真っ直ぐに見た。

太い眉に、はっきりと通った鼻筋。
黒く濡れた瞳は涼しげなのに、その奥は燃えたように熱い。





「だから、」




頬にその瞬きを感じそうなほど近い、睫毛の際には。

色気を操る、鉄壁の涙黒子。





「目ぇ、閉じろ。」










“八坂 蒼甫”


浮かんだ、彼の名と入れ違いに。
唇を覆ったのは、濃いミントの世界。

背筋を走った甘い騒めきに、四肢は痺れて飛び込んだ。



偽物は全て、閉じていくエレベーターの扉の向こうに置いてけぼり。
小さな箱は、私と彼だけを閉じ込めた。









濡れた音、熱い舌、凍った頬を溶かす大きな掌。

彼がミントを吐く度、身体は現実から遠ざけられて、渦巻くような目眩に突き堕とされていく。



泣き崩れた現実の中で。
熱い唇だけが、私の身体に杭を打つ。


この熱い唇は、崖っぷちのロマンスか、甘く痺れるトラップか。

目を凝らしても、まだその正体は遠くて。










崩れ落ちそうな身体を支えるため、思わず彼の首元を引き寄せた、その時。



止まっていたエレベーターは、もう一度ゆっくりと動き出した。








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