唇トラップ

水曜日の憂鬱 _ 3




現れたラスボス。
弄ぶような口ぶりに振り向けば、牧役員がIDカードをクルクルと指で回しながら私のデスクに腰掛けていた。



「藤澤さんには、僕のマネージャーとして参加してもらう。」



ドレスコード無視の、ちょい髭。
一見いつも穏やかな笑顔を浮かべた優男。
だけど中身は恐ろしいほどの敏腕で、海外仕込みの超実力主義。容赦ない切り捨て方で、会議中は体感温度を10℃は下げる。


日本社、ロンドン支社で泣かせた女子は数知れず。
そんな噂も、この人なら…と思わせてしまう妖しい色を持った人。

うちの支社で紫色のポケットチーフがギャグじゃなくキマるのは、牧さんだけだと思う。


って、そんなことより!
僕のマネージャー?!




『私、サッカーなんてやったことないんですよ?!』

「いいよ、だって選手じゃないもん。
マネージャー的な感じでお手伝いしてくれればいいから。」

『ルールだってよく知りません。』

「簡単だよ、藤澤さんならすぐ覚えられる。」

『なんで私が…』

「だって僕の秘書でしょう。」



……負けそう!涙


『業務命令でしょうか?』

「そうしないといけないなら_________」



目の前までやって来て。
背の高い牧さんが、覗き込むように背を屈める。
フワリと舞う、濃い香水の香り。



「命令、するけど?」



……負けた。涙



『……分かりました。』

「やった〜♡」


牧役員の戯けた声と一緒に、パチパチと室の彼方此方からまばらな拍手が起こった。
見れば、小堺課長なんて涙目で頷きながらのスタンディングオベーション。

狸課長めっ…!


唇を噛み締めながら、デスクに戻って。腰を落とすと、先輩が隣から耳打ちしてきた。





「噂で聞いたんだけど、今年って海営がメインなんでしょ?」

『…私もよく知りませんけど。』

「いい人いたら紹介してね!八坂さんとまでは言わないからさ♡」

『はぁ…。』

「藤澤さんはもう結婚も決まってるんだし♡あとは秘書課のメンバーのために協力してちょうだいね!」



結婚なんて決まってないよ。アラサー崖っぷちなのは、私だって一緒なのに。

だけど、この状況下でそんなこと言えば益々面倒なことになると分かってるから、ヘタに否定もできない。


「ねぇ、そういえば式場とかってもう決めてるの?」


泣きたい。なんでこんなことになっちゃったんだろう。




積み上げられた、経費精算書類に目をやった。
一つ一つ、各部の上げた決裁と付け合わせて承認していかないといけないから、こんな量絶対今日中には終わらない。

だけど終わらせないといけない、これも牧さんの業務命令だから。



窓の外が一瞬強烈に明るくなって、すぐに雷の音が轟いた。
どこからともなく立ち上がる、「すごい雨、早く帰ろー」という女子の声。





泣きたい。なんでこんなことになっちゃったんだろう。


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