唇トラップ

水曜日の憂鬱 _ 8





それは、欠けてた何処かにぴったり当てはまった。


私といるから、他の誰かを思い出さない。

形は違えど、真髄は私が欲しかったもの。



柊介の浮気は、いろんなことを傷つけたけど。
二人でいた時間、いつも柊介の心には私以外がいたんじゃないかという疑いが一番辛かった。

私は柊介だけを見てたのに、柊介は私だけじゃ足りなかった。
私が悪かったのかな。浮気された私に、原因があったのかな。

縋り付いてたプライドはもうぼろぼろで、嚙み締める度に空虚だった。



そんな空虚を、この人は簡単に埋めていく。




泣きそう。
鼓動に鼻先を更に押し付ければ。



「なに。不満?」


首を縦に振る。
鼻先がシャツに擦れて、少し痛い。



「悪かったな。笑」


ゆっくりと二回髪が撫でられた。

八坂さんの言葉にも仕草にも、他意はないんだろうけれど。
私にはそれで十分だった。







「ただ一つ言えるのは。」


そっと二つの身体の間に隙間が空く。

後頭部に添えられた掌は、髪越しでもその熱を放っていて。


「俺は簡単に、手を出したり引っ込めたりなんてしない。」


八坂さんの瞳は綺麗だ。特徴的な涙黒子にばかり目がいっていたけど。

この人の瞳は潔くて綺麗だ。
左の頬がまた、冷たく伝っていく。


「気がすむまで付き合ってやるよ。」

『なに、に…?』


振り絞った声は、掠れて殆ど息だった。



近づいて来る視線が少しだけ下にそれる。
次の仕草を予想した本能が、薄く唇を開き待つ。


キス______________


の、間際で。


「“悪さ”。」


彼が呟いた一言に、私は堪らず吹き出した。



『………ぶっ。笑』

「あぁ?」


寸前で彼の胸を押し離れた私に不機嫌な声をあげる。そんな彼を前にしても、私は笑いが止まらない。



『…くくっ、わ、悪さってっ…!笑
日本昔話でも、そんな単語使う人いないよっ…』

やばい、面白すぎる。
しかもこの人がこんなシチュエーションで、そんな古臭い言い回しを使うなんて!

似合わなすぎるっ…!ww



『あはっ、あははは…』



不意をついた意外性が妙にツボで。

ひとしきり肩を震わせて笑っていたら、グッと腰を引き寄せられた。



「なぁ。」



揺れたポニーテールの毛先が、柔らかく首筋を打った。

見上げれば、苛立ち混じりの蒼きサディスト。
さっきまでと違わず恐ろしいほど綺麗な顔なのに。
私はもう、この人がちっとも怖くない。





「もういい?」




甘やかな響きの意図を理解した身体が、瞬間的に発熱したその時。
私の唇は、せっかちな彼に飲み込まれた。




突き落とされるコバルトブルー。
ミントの波に襲われて、忽ち身体を見失う。

ただ一つあるのは唇。

彼の唇が、私の隙間を埋めていく。



軽い水音、溢れる吐息。
目の前にある全てに、夢中で手を伸ばす。



















憂鬱は微塵に砕けて。

交わす水温に耽溺して。





息つく間も許さず、更に奥を探られたその時。


私はやっと、粗末なプライドを手放した。


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