絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ
3月8日 退社
3月8日
その1か月は驚くほど早く過ぎた。
出社するだのしないだのと話していた1日からは嘘のような28日が終わり、3月に入る。
倉庫の作業は昔とあまり変わらず、順調だ。新しい商品も見慣れてきたし、新しい人とも少しずつ会話が増えた。
巽ともうまくはいっている。
結婚の話にはまだきっかけが必要な気がして、指輪もまだ買いに行ってはいないが、食事したり、メールしたり、恋人らしい時間は持てている。
ただ、恋人らしい、と表現したのにはわけがあって、あの一件以来、身体は重ねていない。今はただ、色々考えすぎたくない。
ふっと溜息を吐く。
この日はなんとなく、宮下のことを思い出していた。
急いで連絡を取らなければならない用はない。だけれども、ただ、本当になんとなく電話をかけなければならない気がしたのだ。
「もしもし、お疲れ様です」
本日はおそらく宮下が休みであろう木曜日。香月は、仕事が終わるなり、車に乗り込んですぐに電話をかけた。
『ああ…お疲れ。悪いな、あれから様子聞きに電話かけようと思ってたんだが』
「いえ、大丈夫です。順調です。最近は商品の仕分けも早くなったし、店の人とも話ができるようになってきました」
『それはよかった。倉庫にして良かったな。接客は無理するなよ』
「いえ、少しのことなら。通りがかりの時だけなので、買回り品だけですが」
『……らしいよ』
宮下の落ち着いた笑い声に、こちらも落ち着いて話ができる。
「今日は……用はなかったんですが。なんとなく、お電話がしたくなって」
既に内容がなくなっていたので、上品な言葉遣いに切り替えてみる。
だが、宮下はそれがあるタイミングであったかのように、
『……俺も電話をかけた方がいいかと思った時もあった。でも、気が付いたら今になって』
と、意味深な一言を出した。
『……香月、あのな』
「はい」
話し方がいつもと違い、一気に緊張感が増す。頭の中ではあれやこれやとすぐに妄想が浮かんだが、全ては、宮下が離婚をする、という何の根拠もない一行に終始した。
『……今どこで話してる?』
「今ですか? 車ですけど。今帰りなんです。え、宮下部長はどこですか?」
『車だよ。今帰ってる途中』
「あ、すみません運転中に……」
『いや、いいんだ……今車を停めたから……。
実は大事な話があるんだ。このことは、本社もほとんどの人が知らない。これからも言うつもりはない。だから今も、香月でなければ、話さなかったと思う』
「………なんですか?」
離婚とは違う気がして無心で待つ。
『俺は今月末、エレクトロ二クスを退社して、リバティへ行く』
悲鳴のような驚いた声が聞こえた。予想通りだ。
「実は、嫁の叔父さんがリバティの幹部でね……結婚前からずっと誘いは受けてた。だが、俺にはリバティは合ってない気がしたし、何しろ、エレクトロニクスからのヘッドハンティングなんて考えられなかった」
『そうですよね……』
「だけど、去年リバティの社長が変わって、大きく会社が変わったんだ。今はエレクトロニクスよよりリバティの方が自分に合っていると思えるくらいに」
『…………』
「反逆者と言われても仕方ない。家電以外の製品を多く扱う安値のリバティと高額な専門性の高いエレクトロニクスは趣向は違うものの、家電製品を扱う業界としては、常に1、2を争う巨大グループだ。しかも、去年からは、リバティも高級志向に乗り出してきている」
『………その、リバティで、今宮下店長が持っている高級志向のノウハウを生かすということですか?』
良い質問だ。
「そうだな……そうなるに違いない。相手もそれを期待しているし、自分もそれを期待している」
『………』
無言の時間が長いので、本音で話すぎたかと後悔する。
『……リバティって、ショッピングモールに近いですよね。どういう働き方をしているんでしょぅ』
予想だにしない質問だったが、何も言わず、真面目に答える。
「店舗ごとにマネージャー、サブマネージャー数人が在籍し、それぞれの階を管理している。社員数とバイトの比率でいうと、バイトが圧倒的に多い。うちとは違ってな。そのバイトをうまく生かしきれてはいないそうだが」
『なかなか難しい問題ですよね』
「そうだ。そこを生かすプログラムをもっと鍛える必要はあると思う」
『宮下部長は営業の方に行くんですか?』
そこまで詳しく話をするつもりがなかったので、数秒考えたが、やはり口を開くことにする。
「営業副部長の場所が、この4月に空くんだ。そこに行くことになっている」
『はっきり決まってるんですか……』
「…………悪いな。だから、香月の面倒を見られるのも、これが最後になると思う」
『…………』
思えば、数々の問題が起こり、それを片付けてきたのも、自分が彼女に惚れていたからというだけではなく、エレクトロニクスの上司だったからという立場の方が大きい。
それが、なくなる。
だとしても、自分に変わる誰かが、助けてくれる。彼女はそういう星に生まれた女だから。
何も悲観しなくていい。
今後、彼女との連絡は少々取れても、今までのようにはいかない。だがそれがなんだ。
そんなことは、一家を支えていかなければいけない自分としては、些末な問題だ。
『私、エレクトロニクスのことを嫌いだと思ったことは一度もありません。だから、倉庫でいて、ここのまま元に戻っていくんだろうなと思っていました』
「…………」
続きを待つ。
『だけどもし、私もリバティに行くと言ったら、宮下部長は何とおっしゃいますか?』
「え!?」
予期せぬ答えに、嬉しさが先にこみ上げて笑ってしまった。
「何を……」
『私、それでもいいかなと思ったんです。今ふっと思っただけだから、ふんぎり着かないかもしれないけど。
でも、今のこの状態で、記憶を取り戻していくというか、そういうことをするよりは、リバティに行って新しい日々を迎えた方がいいんじゃないかと思いました』
「まあ確かに、溝を埋めていくというよりは、違う会社に勤めた方が気持ちは随分楽だろう。……だけど、辞めてもリバティに入れる保証はどこにもない。ツテで入ると苦労するだけだし、香月はそういうの嫌いだろうし」
『別に、嫌いってわけじゃ……』
よく言うよ。
「いや、ツテを当たると苦しいもんだよ。実際俺も今、香月じゃない奴から電話がかかってきたら、苦しかっただろう。自分の意思とはいえど、他人への義理立てもあるし。
でも、自分の意思できちんと納得した上で、一から受け直すのなら……良いとは思うけど」
香月の人生のために良いのか、何なのかは分からないふりをして、それにとどめておく。
『………』
「本当に受け直したいんならな。俺は正直、エレクトロニクスを辞めることは、確かに気が楽になるかもしれないが、リバティへ来ることはどうだか分からない。同じ家電でいられないかもしれないしな。あそこは衣服や食品、家具など畑違いな物の集合体だ」
『……それでも、やってみたいかもしれません。それに、新しい人と仕事をする方が楽だと思います』
「………、その辺りは本当によく考えた方がいい……。色々……例えば巽さんともうまくいっているのなら、相談した方がいいだろうし。
本当にリバティを受けようと思っているのなら」
『…………』
「しかし、もし受け直すとしたら、エレクトロニクスをよく知っておいた方がいい。それが絶対に武器になる」
半信半疑で言ってみたが、香月は即答した。
『一つ、に絞って専門性を高めましょうか。例えば、倉庫や修理、カウンター、などは向こうでも十分通用すると思います』
「いや、広く知っておく方がいい。今は倉庫なら自店のだけでなく、他の倉庫の商品の動きもパソコンでみられるから、そういうものを見ておくといい。
あまり無理は言いたくないが、可能なら。今の店よりは大きい店にいた方がいい。リバティは大型店ばかりだ。
東都シティ。あそこは精鋭しか入れない。今の香月では到底無理だ。だが、倉庫ならどうにかなるかもしれない。
それに、本当に退社するのなら、しばらく時間を置いてからの方がいい。
そうだな……あまり使いたくはないが、真藤さんに東都に行きたい旨を話しておくとどうにかなると思う。真藤さんは香月の実力を信用しているからな。
だから、あまり記憶がないことをおどおどせずに、堂々と仕事をして、行けそうなタイミングで根回ししておくことだ。
仕事熱心な香月が東都に行きたいということは全く不自然じゃない………と、なんだか話す過ぎてしまったな」
『いえ、その方向で行きましょう』
行きましょうって、共謀じゃないんだから……、笑いたくなる。
「悪い。熱く語ってしまったが、今、香月の体調が万全じゃないことは、分かっている。本当に無理はしてほしくない」
『体調が悪いったって記憶はもう戻らないんですから。多分。だから、それよりも、前向きにどうししていくのか考えた方がずっといいと思います。私は……』
「……」
『私は、まだ仕事をしていたいですから』
「でも……巽さんとはどうなんだ? 結婚とか」
もう自分は退社するんだから、聞きたいことを聞いても構わないはずだ。
『うーん、ふんぎりつかなくて』
思わず笑ってしまった。いつになったら、結婚の踏ん切りがつくんだと。
「まあ、そんなもんだよ。独身の時なんて」
ああ、なんて楽しいひと時なんだと思う。だが、俺には帰る場所がある。馬車はいつまでも待ってはくれない。
「……というわけだ。
本当にあまり無理はするな。俺が言ったのは、俺の理想だ。香月が実行するべきプランではない」
その1か月は驚くほど早く過ぎた。
出社するだのしないだのと話していた1日からは嘘のような28日が終わり、3月に入る。
倉庫の作業は昔とあまり変わらず、順調だ。新しい商品も見慣れてきたし、新しい人とも少しずつ会話が増えた。
巽ともうまくはいっている。
結婚の話にはまだきっかけが必要な気がして、指輪もまだ買いに行ってはいないが、食事したり、メールしたり、恋人らしい時間は持てている。
ただ、恋人らしい、と表現したのにはわけがあって、あの一件以来、身体は重ねていない。今はただ、色々考えすぎたくない。
ふっと溜息を吐く。
この日はなんとなく、宮下のことを思い出していた。
急いで連絡を取らなければならない用はない。だけれども、ただ、本当になんとなく電話をかけなければならない気がしたのだ。
「もしもし、お疲れ様です」
本日はおそらく宮下が休みであろう木曜日。香月は、仕事が終わるなり、車に乗り込んですぐに電話をかけた。
『ああ…お疲れ。悪いな、あれから様子聞きに電話かけようと思ってたんだが』
「いえ、大丈夫です。順調です。最近は商品の仕分けも早くなったし、店の人とも話ができるようになってきました」
『それはよかった。倉庫にして良かったな。接客は無理するなよ』
「いえ、少しのことなら。通りがかりの時だけなので、買回り品だけですが」
『……らしいよ』
宮下の落ち着いた笑い声に、こちらも落ち着いて話ができる。
「今日は……用はなかったんですが。なんとなく、お電話がしたくなって」
既に内容がなくなっていたので、上品な言葉遣いに切り替えてみる。
だが、宮下はそれがあるタイミングであったかのように、
『……俺も電話をかけた方がいいかと思った時もあった。でも、気が付いたら今になって』
と、意味深な一言を出した。
『……香月、あのな』
「はい」
話し方がいつもと違い、一気に緊張感が増す。頭の中ではあれやこれやとすぐに妄想が浮かんだが、全ては、宮下が離婚をする、という何の根拠もない一行に終始した。
『……今どこで話してる?』
「今ですか? 車ですけど。今帰りなんです。え、宮下部長はどこですか?」
『車だよ。今帰ってる途中』
「あ、すみません運転中に……」
『いや、いいんだ……今車を停めたから……。
実は大事な話があるんだ。このことは、本社もほとんどの人が知らない。これからも言うつもりはない。だから今も、香月でなければ、話さなかったと思う』
「………なんですか?」
離婚とは違う気がして無心で待つ。
『俺は今月末、エレクトロ二クスを退社して、リバティへ行く』
悲鳴のような驚いた声が聞こえた。予想通りだ。
「実は、嫁の叔父さんがリバティの幹部でね……結婚前からずっと誘いは受けてた。だが、俺にはリバティは合ってない気がしたし、何しろ、エレクトロニクスからのヘッドハンティングなんて考えられなかった」
『そうですよね……』
「だけど、去年リバティの社長が変わって、大きく会社が変わったんだ。今はエレクトロニクスよよりリバティの方が自分に合っていると思えるくらいに」
『…………』
「反逆者と言われても仕方ない。家電以外の製品を多く扱う安値のリバティと高額な専門性の高いエレクトロニクスは趣向は違うものの、家電製品を扱う業界としては、常に1、2を争う巨大グループだ。しかも、去年からは、リバティも高級志向に乗り出してきている」
『………その、リバティで、今宮下店長が持っている高級志向のノウハウを生かすということですか?』
良い質問だ。
「そうだな……そうなるに違いない。相手もそれを期待しているし、自分もそれを期待している」
『………』
無言の時間が長いので、本音で話すぎたかと後悔する。
『……リバティって、ショッピングモールに近いですよね。どういう働き方をしているんでしょぅ』
予想だにしない質問だったが、何も言わず、真面目に答える。
「店舗ごとにマネージャー、サブマネージャー数人が在籍し、それぞれの階を管理している。社員数とバイトの比率でいうと、バイトが圧倒的に多い。うちとは違ってな。そのバイトをうまく生かしきれてはいないそうだが」
『なかなか難しい問題ですよね』
「そうだ。そこを生かすプログラムをもっと鍛える必要はあると思う」
『宮下部長は営業の方に行くんですか?』
そこまで詳しく話をするつもりがなかったので、数秒考えたが、やはり口を開くことにする。
「営業副部長の場所が、この4月に空くんだ。そこに行くことになっている」
『はっきり決まってるんですか……』
「…………悪いな。だから、香月の面倒を見られるのも、これが最後になると思う」
『…………』
思えば、数々の問題が起こり、それを片付けてきたのも、自分が彼女に惚れていたからというだけではなく、エレクトロニクスの上司だったからという立場の方が大きい。
それが、なくなる。
だとしても、自分に変わる誰かが、助けてくれる。彼女はそういう星に生まれた女だから。
何も悲観しなくていい。
今後、彼女との連絡は少々取れても、今までのようにはいかない。だがそれがなんだ。
そんなことは、一家を支えていかなければいけない自分としては、些末な問題だ。
『私、エレクトロニクスのことを嫌いだと思ったことは一度もありません。だから、倉庫でいて、ここのまま元に戻っていくんだろうなと思っていました』
「…………」
続きを待つ。
『だけどもし、私もリバティに行くと言ったら、宮下部長は何とおっしゃいますか?』
「え!?」
予期せぬ答えに、嬉しさが先にこみ上げて笑ってしまった。
「何を……」
『私、それでもいいかなと思ったんです。今ふっと思っただけだから、ふんぎり着かないかもしれないけど。
でも、今のこの状態で、記憶を取り戻していくというか、そういうことをするよりは、リバティに行って新しい日々を迎えた方がいいんじゃないかと思いました』
「まあ確かに、溝を埋めていくというよりは、違う会社に勤めた方が気持ちは随分楽だろう。……だけど、辞めてもリバティに入れる保証はどこにもない。ツテで入ると苦労するだけだし、香月はそういうの嫌いだろうし」
『別に、嫌いってわけじゃ……』
よく言うよ。
「いや、ツテを当たると苦しいもんだよ。実際俺も今、香月じゃない奴から電話がかかってきたら、苦しかっただろう。自分の意思とはいえど、他人への義理立てもあるし。
でも、自分の意思できちんと納得した上で、一から受け直すのなら……良いとは思うけど」
香月の人生のために良いのか、何なのかは分からないふりをして、それにとどめておく。
『………』
「本当に受け直したいんならな。俺は正直、エレクトロニクスを辞めることは、確かに気が楽になるかもしれないが、リバティへ来ることはどうだか分からない。同じ家電でいられないかもしれないしな。あそこは衣服や食品、家具など畑違いな物の集合体だ」
『……それでも、やってみたいかもしれません。それに、新しい人と仕事をする方が楽だと思います』
「………、その辺りは本当によく考えた方がいい……。色々……例えば巽さんともうまくいっているのなら、相談した方がいいだろうし。
本当にリバティを受けようと思っているのなら」
『…………』
「しかし、もし受け直すとしたら、エレクトロニクスをよく知っておいた方がいい。それが絶対に武器になる」
半信半疑で言ってみたが、香月は即答した。
『一つ、に絞って専門性を高めましょうか。例えば、倉庫や修理、カウンター、などは向こうでも十分通用すると思います』
「いや、広く知っておく方がいい。今は倉庫なら自店のだけでなく、他の倉庫の商品の動きもパソコンでみられるから、そういうものを見ておくといい。
あまり無理は言いたくないが、可能なら。今の店よりは大きい店にいた方がいい。リバティは大型店ばかりだ。
東都シティ。あそこは精鋭しか入れない。今の香月では到底無理だ。だが、倉庫ならどうにかなるかもしれない。
それに、本当に退社するのなら、しばらく時間を置いてからの方がいい。
そうだな……あまり使いたくはないが、真藤さんに東都に行きたい旨を話しておくとどうにかなると思う。真藤さんは香月の実力を信用しているからな。
だから、あまり記憶がないことをおどおどせずに、堂々と仕事をして、行けそうなタイミングで根回ししておくことだ。
仕事熱心な香月が東都に行きたいということは全く不自然じゃない………と、なんだか話す過ぎてしまったな」
『いえ、その方向で行きましょう』
行きましょうって、共謀じゃないんだから……、笑いたくなる。
「悪い。熱く語ってしまったが、今、香月の体調が万全じゃないことは、分かっている。本当に無理はしてほしくない」
『体調が悪いったって記憶はもう戻らないんですから。多分。だから、それよりも、前向きにどうししていくのか考えた方がずっといいと思います。私は……』
「……」
『私は、まだ仕事をしていたいですから』
「でも……巽さんとはどうなんだ? 結婚とか」
もう自分は退社するんだから、聞きたいことを聞いても構わないはずだ。
『うーん、ふんぎりつかなくて』
思わず笑ってしまった。いつになったら、結婚の踏ん切りがつくんだと。
「まあ、そんなもんだよ。独身の時なんて」
ああ、なんて楽しいひと時なんだと思う。だが、俺には帰る場所がある。馬車はいつまでも待ってはくれない。
「……というわけだ。
本当にあまり無理はするな。俺が言ったのは、俺の理想だ。香月が実行するべきプランではない」