トンネルを抜けるまで

 思い出してしまった。いっそ忘れてしまいたかった、全ての出来事を。
「君、何か思い出したのか?」
 何かも何も、嫌なことを全部。皮肉にも、こうして二人で話し合うまで、先生がこんなにも情のある人だとは思わなかった。小学校の時の先生だったら、こんなに辛く無いのにな。あるいは、もっと早くこの先生とこうして話すことが出来たら……。
 いいから、小山先生は先に帰って下さい。私も後で行くから。
 精一杯の笑顔で言った。私の言葉に、小山先生はハッとしたようだった。
「そうか、先生の名前を思い出したのか。有難うな」
 うん。それは良いからさ、先行ってよ。私は気持ちの整理を付けてから行くよ、絶対に。
「そうだな」
 小山先生が背を向ける。きっと、これが一番幸せな結果。私はこの先の恐怖に怯えることも無く過ごせるし、こんな逸材である小山先生を死なせずにもすむ。罪悪感がすっと抜けていく様な感覚だ。
「それじゃあ、先生ももう少し此処にいるよ。君のことを思い出すまではな」
 は? どうしてそうなるの?
 先生は驚く私の視線も気にせずその場に座り、あぐらをかいた。
「だから、一緒に行こうな」
 白い光で、先生の優しい顔がさらされる。嫌だよ、そんな優しい顔向けないで。私は貴方を殺したも同然なのに……。本当は嫌われるのが怖くて、言いたく無かった。だけど、言うしかないんだな。
 先生、私は貴方と一緒に帰る資格なんて無いんです。
「どうしてだ?」
 きょとんとした顔で聞く。きっと、その顔がいずれ崩れ去ってしまうんだろうな。
 私、いじめられてたんですよ。でも相談する人いなくって、一人でいじけて、怯えて、気づいてくれない世の中を嫌った。だから、死のうと思ったんです。小山先生はね、私を助けようと一緒に飛び降りて下敷きになったんですよ。
 何かを思い出したのか、先生の表情が変わった。そして視線を私から逸らすと、ゆっくりと目を閉じた。考えがまとまったのか、目を開くとまた私を見る。少し怒ったような顔つきで。
「そうだったな。で、何故山際は此処にいる」
 言葉に詰まった。此処が何処なのか分からないけど、多分この異質な世界は……。
「山際!!」
 感情的な小山先生の声に戸惑い、怯えた。震えが止まらなくなった私の腕を掴み、先生が悲しそうな表情で私の目を見る。
 先生が死んじゃったと思って。怖くて、罪悪感に押しつぶされそうで、これから先のこととかも考えて、いじめられるのも怖かったし、お母さんとは喧嘩したままで帰りづらいし……だから、自分で、もう一回。
 掴んでいた手が、力を失って滑り落ちていく。顔を伏せ、先生は少しの間言葉を失っていた。
 ……ごめんなさい、私、先生のことまで巻きこんで。後悔しますよね、こんな奴のこと守って。
「後悔しているよ。どうして、君がこんなにも苦しんでいること、気づくことが出来なかったのか」
 今になってまだそんなこと言うんですか? もう良いよ先生。こんな自己中の生徒放って先行ってよ。じゃないと、本当に死んじゃうよ?
「君は先生が死んだ時、罪悪感で押しつぶされそうになったのだろう? 同じだよ。君一人を置いて、笑顔で暮らせる程、先生は図太い神経を持ってる様に見えるかい?」
 小山先生は困った様に笑いながら言った。そうか。確かに、この先生に、そんな神経は無さそうだ。
「何時まででも良いよ。何ならずっと此処にいても良い。君が行きたくなったら行けばいい。付き合うよ、どうせ先生にはご飯を炊いて待ってくれる様なカミさんもいないんだ」
 私の手を握ったまま、先生はその場に大の字になって寝ころんだ。
「安月給で生徒に反発されながら必死に勉強を教える。たまに上司や生徒の親に怒られたりしてさ、その隙間で苦しんでいる生徒を見つけることも出来ず、明日のテストをせっせと作る。俺って、何の為の教師なんだろうな?」
 私も先生の様に大の字になる。
 わかりません。でも、少なくとも、私は好きですよ。小山先生のこと。だからこそ、小山先生には生きてほしいんです。その隙間で苦しんでいるのは、私以外にもいると思うから。
「かもしれないな。だが、今隣で苦しんでいる生徒も救えない私に、何が出来ると言うんだろう」
 横を見ると、先生はぼんやりと遠くを見つめていた。先生は自問自答している様だった。先生も、辛いことがあるんだよな。
「ただな、山際。俺には待ってくれている人間がいないかもしれない。けど君を待っている人は少なからずいるはずだ」
 まっさか、私は親から嫌われてるし。
「ご両親は勉強のことしか話したことがないから分からないが、君のお姉さん、彼女は君のことを本当に愛していると感じたよ」
 お姉ちゃんは最近あまり話ししないし、お姉ちゃんは大学とか家庭教師とかで、きっと友達多いから。
「でも血は争えないだろう? 君が何度勉強を忘れても、幾ら理解出来なくても、お姉さんは君が理解して覚えるまで教えてくれたのだろう?」
 うん。何だか先生みたいな人だったな。勉強が理解出来なくて、お姉ちゃんに怒ったりしても、お姉ちゃんめげずに教えてくれたんです。嫌な顔一つしないで。
「そんなお姉さんが、今になって君を嫌うと思うかい? 君が死んで何も思わないと思うのかい?」
 今朝、ドア越しに聞こえたお姉ちゃんの声を思い出した。……せめて、お姉ちゃんには言っておきたかったな、さよならって。
「今、俺や君がどんな状況か分からないが、もし家族の目に止まっているとしたら、泣いていると思うぞ。生きて。そう思っているはずだ」
 先生だって、家族いるんじゃないですか?
「俺の親は早くして無くなってな。だから、本当に生きている意味が無いのは、ある意味こっちなんだ」
 先生の笑顔が切なかった。
 私は、先生と言う人が必要だと思います。小山先生みたいな優しい人、滅多にいないもん。
「有難うな」
 穏やかな笑みを見せていた先生の表情が一変した。何事かと私も驚くと、起き上がって先生が私の手を掴む。自分の手元を見てみると、少し体が透けている。どういうこと?
「……すまない、山際。先生を恨んでくれ」
 何かを察した先生は、私の手を引っ張り、光の中へと背中を押して強引に抜けさせた。振り返ると、先生の体も透け始めていた。先生は私を見送ってからでも行こうとしてるのか、動こうとしない。
 先生! 先生も早くこっちへ!! 私は思わずそう叫んでいた。
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