意地悪上司に求愛されています。(原題 レア系女史の恋愛図鑑)
30 貴方と繋がる空
 昨日の蜜夜で身体は結構だるい。だけど、心は充たされている。
 フワフワとした気持ちを一喝し、「今から仕事なんだから」と気合いを入れた。
 営業事業部のオフィスに足を踏み入れて、「あら?」と声を上げる。
 今朝の営業事業部のオフィスは大きな騒ぎになっていたからだ。
 私にしたら今日は遅めの出勤だった。とは言っても、いつもならまだ誰も来ていないのが日常である。
 しかし、今日は違っていた。私がオフィスに足を踏み入れると、そこには部下たちが雁首揃えて待っていたのだ。
「菊池さん、寿退社とかありませんよね? それともNYに転勤願いをだしているとか」
「ちょ、ちょっと待って。茅野さん、落ち着いて」
 その異様な雰囲気に思わず後すさりをして帰りたくなったが、それを茅野さんは許してはくれなかった。
「木島さんとはその辺り、どのように考えているんですか?」
「だから、ちょっと! 茅野さん。落ち着きなさい!」
 エキサイトしていく茅野さんを一喝すると、彼女は不安そうに眉を寄せた。
「だって、私……まだまだ菊池さんに教えてもらいたいこといっぱいあるんです」
「茅野さん」
「だけど、それは私の我が儘だってわかっています。菊池主任のことを考えれば、NYにいる木島課長の下に行くのが一番なんじゃないかって」
「……」
「分かっているんです、頭では。だけど、寂しくて……」
 グスグスと涙まで流す茅野さんを見て慌てふためいてしまう。
 周りに救いを求めようと視線を向けたが、課員は皆、神妙な顔をしている。
「菊池主任、茅野さんは私たちの気持ちも代弁してくれています」
「主任、本当のところどうなんでしょうか? 昨日の木島課長、とても意味深なことを言っていましたよね」
 ああ、と私はやっとこの状況を呑み込んだ。
 確かに昨日、木島はこの営業事業部に足を運び、私をかっ攫っていった。
 その際に、一番の新人である茅野さんに木島は言ったのだ。
『じゃあ茅野さんに聞くよ。君の大好きな菊池主任。日本から連れ出してもいいだろうか?』
 この発言はかなり意味深に聞こえたことだろう。
 木島の言葉を鵜呑みにしたのなら、私が会社を辞めてNYにいる木島の下へ行くといったニュアンスに取れるはずだ。
 だからこそ、今。この営業事業部の課員たちがよってたかって私に問いかけたきたのだ。
「本当に、もう……」
「菊池さん?」
 茅野さんがグスグスと鼻を鳴らしながら、私を見つめている。
 そんな彼女にほほえみかけたあと、大きくため息をつく。
 正直嬉しかった。課の皆が私のことを心配してくれるなんて、少し前の私ならこうはならなかったかもしれない。
 信頼関係が築けた証拠だ、と木島ならわかったふうに言うのだろうか。
 コホンと一つ咳払いをしたあと、私は皆を見回した。
「とにかく、これから仕事なのよ。頭を切り換えてちょうだい」
「ですが、菊池主任」
 反論しようとする男性課員に視線を投げたあと、私は肩を竦めた。
「私はここから離れないわよ」
 シンと静まりかえるオフィス。あれ、これは予想外だ。
 てっきり喜んでくれるものだと思っていた私は、目を白黒させる。
 すると目の前にいた茅野さんは、再び目に涙をいっぱい溜めてた。
「もしかして、木島課長と別れたんですか。仕事を取ったんですね、菊池さん」
「はぁ?」
 すでに課の皆は、私と木島が別れたのだと結論づけてしまったようだ。
 腫れ物に触れるような課員の視線に、私は苦笑いを浮かべる。
「違うわよ。木島さんとは別れていないわ」
「じゃあ、遠距離恋愛続行ということですか!?」
 茅野さんは、涙をポロポロ流しながら私に縋ってきた。
「菊池さん、大丈夫ですか? 寂しくて苦しくなりませんか?」
「えっとね、茅野さん。とにかく落ち着きなさい」
 カバンからハンカチを取り出すと、それを彼女に渡す。ハンカチで頬を拭ったことを確認して、私は宣言をした。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ」
「菊池さん、強がらなくても 」
 ハンカチをギュッと握りしめて私を見る茅野さんに、ニッコリとほほ笑む。
「仕事は辞めないわ。それに遠距離恋愛もしないから。ついでに木島さんとは別れないわよ」
 私の発言により、課の皆の頭の中はクエスチョンマークで一杯になったのだろう。
 ポカンと口を開けて、目を見開いている。
 その様子を見て、「わかるわ、その気持ち」と内心大きく頷いた。
 昨夜、甘い余韻を引きずりながら、彼の腕の中でまどろんでいるときだった。
 やっと彼の口から『麻友は仕事を続けて大丈夫』という言葉の裏付けを教えて貰えたのだ。
「俺が日本にいれば問題ないだろう?」
「だから、それができたら苦労はしないわ……って、もしかして沢コーポレーションを辞める気なの!?」
 それはダメだ、絶対にダメ。彼は沢コーポレーションにおいて絶対に必要な人材でもあるし、彼自身もあの会社で生き生きと仕事をしている。
 それなのに私の我が儘を汲み取って彼自身が犠牲になろうとしているのか。
 絶対にダメだ、と断固として反対する私を見て、木島は苦笑した。
「誰が辞めるって言った?」
「え……?」
 どういうことなのか。首を傾げていると、木島はスマホを取りに行き、徐にかけ始めた。
 訳が分からず彼を見つめていると、電話先の誰かと話し始める。
「お疲れさまです。ええ、この時間ならお手すきかと。……今までずっと渋っておりましたが、前に頂いた話。進めていただこうかと思いまして」
 全く意味がわからない。電話の主は一体誰なのだろう。
 聞き耳を立てるが、残念ながら話の内容までは聞こえない。
「はは、気が変わったということです。しょうがないので貴方をサポートしますよ。もちろん、すぐには無理でしょうね。ただ、この一年。部下には仕事をたたき込んでいますので三か月もあれば……」
 うまく話が纏まったのだろう。「では、また」と木島は爽やかに挨拶をして電話を切ってしまった。
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