エリート上司と偽りの恋
◇
二〇〇九年九月。
恐らく最低でも五年はニューヨーク支店で勤務することになる。日本での生活は残り僅か、とりあえず飽きるくらい日本食を食べよう。
入社したときからニューヨーク支店へ行くことは決まっていたから気持ち的には落ち着いているが、入社一年にも満たない俺が先輩に引き継ぎするのは少し気が引ける。
だがそれも仕事のうちだ。
ガラガラではないが満員というわけでもない、椅子は全て埋まっている状態の電車で、つり革に掴まりながら軽くため息をついた。
電車に乗って三駅目を出たとき、隣に立っている女性が俺にしか聞こえないくらいの声で話し掛けてきた。
「いつもこの電車に乗るんですか?」
知り合いでもないし、突然すぎてわけが分からない。
「私はあまり利用しないんですけど、もしよければ今度……」
「いえ、結構です」
その女性の顔は見ていないが、それ以上話しかけてくることはない。……と思っていたとき。
「さ……触らないで!この人痴漢!」
その瞬間、同じ車両に乗っていた人たちが一斉に俺を見た。
は!?突然なにを言い出すんだ!なにもしてないだろ!
痴漢に間違われたときは、逃げた方がいいというのをテレビで見たことがあった。が、人に囲まれているこの状況で、どうやって逃げればいいっていうんだ。
もしかしてこのまま間違われて掴まって、ニューヨーク行きは無しになるのか?もしくはそれ以上に最悪な展開が俺を待ち受けてるのかも……。
そう思ったとき、目の前に座っていた女性が立ち上がった。
「この人は痴漢なんてしてませんよ。私の目線と丁度同じ場所だったんで、ちゃんと見てました。左手はつり革で、右手には鞄。触るのは無理です」
なんだ、彼女は……。救世主か?
彼女の言葉にさっきまで俺を痴漢扱いしていた女性は、ばつが悪そうな顔をして駅に停車した途端、足早に電車を降りて行った。
何事もなかったかのように再び座った彼女に、俺は頭を下げた。
「ありがとうございました」
すると彼女は「いえ」とだけ言い、次の駅で降りて行った。