星月夜
ピアノを弾かなくなってだいぶ経つ。
お父さんが失業したことで、子供の頃から愛用していたグランドピアノを売らなければならなくなった。
以来ピアノに触れることはなくなったけど、今でもピアノの音色には過剰に反応してしまう。
住宅街の中でどこかの家からピアノの音がするとうらやましくなるし、楽器店や電気屋で電子ピアノを見かけると弾きたくなる。何でもない瞬間、無意識に指が動きエアピアノしてしまう。
もう二度と弾けないのに毎日弾いていた頃のクセが全然抜けなくて、爪をマメに短くしてしまう。
変に気を遣わせたくなくて、知輝をはじめ高校時代の友達にはそういうことは一切言わないようにしていた。
そうしているうちに、長い付き合いの友達にすら音楽の話を素直にできなくなった。他の話題では何時間でも盛り上がれるのに。
本当は感情さらして語りたい。今日の映画の曲はとてもよかったーとか、あんな風に弾ける人に憧れるーとか。知輝はきっと聞いてくれるだろう。
悟には何となく言えなかったけど、その映画を観たかった一番の理由がそれだった。作中の音楽がとてもいいと評判だったので興味が出た。
「音楽はともかく、ストーリーはよかったよ」
『俺としてはストーリーより音楽がオススメなんだけどね。弾いてるの秀星(しゅうせい)だし』
「え……?」
秀星。その名前に、それまでの冷静さが吹き飛びそうになった。