常務の秘密が知りたくて…
 長丘化学工業株式会社――医療用器具の製造を主に扱い、ここ近年では製造だけではなく大学や他企業と提携して新たな医療器具の開発にも積極的に取り組んでいる今注目の企業だ。

 私が大学を卒業してこの会社に勤めて早三年。専門職ではなく一般職として採用され、途中で総務課から秘書課へ異動したりもしたが毎日の業務に真面目に取り組むごく普通の社員だった。そこからどうしてこんなことになってしまったのか。

 書類に目を通している常務に視線をこっそりと送る。彼の名前が櫂(かい)だと知ったのはもちろん秘書になってからだ。でもそれだけ。こうして秘書になってからも常務のことはほとんど知らない。

 長丘常務との出会いは、いや一方的に私が彼を知ったのは入社式だった。代表取締役の挨拶の後に紹介されて現れた長丘常務に会場は小さなどよめきが起こった。

 理由は常務取締役という役職でありながらその若さと見た目だった。女子社員の中では「怖い」と「かっこいい」に二分されるのは短めの黒髪と整っている顔立ちにしては目付きが悪く、背も高いのでその迫力に拍車がかかるというのが原因だ。

 社長の息子ということでその役職には納得だが、本人は新入社員に向けての挨拶もどこか面倒臭そうで気だるい感じだった。でもよく通る低い声につい耳を傾けてしまう。

 そして私は理由もなく泣きそうだった、泣きたかった。溢れそうになる涙をぐっと堪えて俯き、この気持ちが何なのかわからずに戸惑いが胸を支配していく。

 初めて会う人に、そうじゃなくても誰かにこんな気持ちを抱くのは今までにない経験だ。一目惚れといえば聞こえはいいかもしれないが、どうもしっくりこない。ただずっと会いたくて恋い焦がれていたような衝動、そんな気持ちだった。

 それから長丘常務と社内で会うことはなかった。平社員と多忙な常務と顔を合わす機会なんて早々あるわけがない。それでも常務についての話はいいものも悪いものも嫌でも耳に入った。
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