月と負け犬

ぼくは、負け犬だ。
負け犬、という名前はみんながつけた。本当の名前があったはずだが、誰も呼んでくれる人はいなかった。だから、ぼくの名前は負け犬だ。
もうそれに違和感も抵抗もない。親に捨てられ、勉強は出来ず、運動神経も良くない。社交性まで持っていないとしたら、負け犬じゃなく何なのだろう。この世界のすべてを勝ち負けで分類するのだとしたら、ぼくは確かに負け側なのだ。
それは、確かに分かっている。

そんな、負け犬のぼくが、誰かを愛したいと思うのは、それは、許されないのだろうか。


彼女のことを話そう。
ぼくが知る限りの、彼女のことだ。
彼女は、先ほどの分類でいうところの勝ち組であることは、世界中…いや、少なくともこの学校内では誰でもそう分類しているだろう。
曰く、彼女は前の学校でミスコン1位であった。
曰く、彼女はお嬢様である。
曰く、彼女は甘い卵焼きが好きである。
曰く、彼女はとても頭がいい。
曰く、この学校一のイケメンと付き合っている。
この情報は、負け犬のぼくが直接聞いたわけではない。
まず前提として、これは偶然だったのだ、と、言いたい。例の如く、留年して同級生だが年上の癖に大人気ないいじめっ子とその金魚の糞に、彼らの言葉で言うところの 【プロレスごっこ 】をし、いつの間にか気を失っていた。プロレスごっこがいつの間にかサンドバッグになっているのはいつものことだ。今では大人しく殴られている方が楽だと気が付いてしまった。これだから、負け犬と呼ばれるのだろう。目が覚めたとき、声が聞こえてきっと奴らがまだ殴り足りなくて戻ってきたのだろうと思った。しかし声の出処が上からだったことに気がついて、ぼくはほっとした。
見上げると、校舎の三階の窓が開いていた。位置からして、美術室ではないだろうか。何人かの声。放課後のお喋りというものに興じているのだろう、楽しげな様子が伺えた。
「だからね…それで」
「まじで?」
「うそー」
そんな言葉が聞こえてくる。ぼくは友達がいないので想像することしか出来ないが、きっと友達と時間を気にせず喋るというものは、楽しいことなのだろう。
そう考えながら、動く気力もなく壁に背を預けてただじっと座っていた。殴られた腹や頬が痛い。こうしていると、自分が無機質の何かになった気がして少し気が楽になった。無機質。本当にそうなってしまえば、誰かに存在を無視されいないものにされても、もう少し平気になれるのだろうか。ぼくは、疲れてしまっていた。
しばらくしてドアが閉まる音。声が途切れている。もしかしたら下校の時刻が近いのかもしれない。そうだとしたら、先生が見回りに回る前に帰るべきだろう。力が入りにくい体でなんとか壁に手をついて立ち上がろうとした時。

歌が聞こえた。

見上げると、校舎の窓は開いたまま。あそこからだろうか。
日が傾き始めて窓ガラスに赤味が帯びていた。

歌詞は、聞き取りづらかった。
知らない曲だった。
だが、その声はぼくにしっかりと届いていて。
なぜだか、ひとりではない気がして、ぼくは痛みでもなく悲しみでもなく、ただ、胸が熱くて。
多分、その時だ。

ぼくは彼女に恋をした。

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