月と負け犬
顔は知らない。彼女の涼やかな声は、間違えようがなく、ぼくは毎日校舎裏に通った。それはたまに例の同級生にどつかれた後だったり、その前だったり。何事もない日もあったが、彼女もその友人も毎日放課後は話し込んでいた。
盗み聞きのつもりはなかったが、人の輪の中に上手く入り込めた気がしていた。
確かにひとりだった。だが、ぼくにはそのじめじめとしていて冷たい校舎裏の、茂みの影が心地良い場所になった。
毎日会話を聞くにつれ、彼女の友人のこと、彼女のことを知ることが出来た。それが、先程の彼女についての情報だ。
負け犬の分際で、気持ち悪いと言われるだろう。人として間違っている、と思いはしたが行くことをやめられなかった。少しずつ知る彼女を思い描いては心の支えになっているのがわかったからだ。
彼女は良く笑う。ころころとでも表現したらいいだろうか。本当に、良く笑う。
言葉の端々が聞き取れないこともあったが、笑い声は良く聞こえてきて、ぼくはそれがとても好きだった。
湿った土の匂い。土に置いた手に、蟻が静かに這うのを眺め、生温い風に乗って初夏を告げるように彼女の声が運ばれてくる。
ぼくは負け犬だが、この時間は確かに生きている、と感じた。

ぼくは負け犬だ。
彼女の声は知っているのに、彼女の顔は知らない。それは、今のこの薄く膜の張ったような、幸せな場所を壊してしまう気がするからだ。だから彼女の名前を、クラスを、確かめたことは無かった。ぼくらの居場所は正しく線引きされていた。

それでも、確かにぼくは彼女のことが好きだった。
校舎裏に通う毎に彼女への想いは募る。少しでも声の調子がおかしければ、心配になった。彼女の友達は、それに気が付かないのだろうか。
そう思いながら、ぼんやりとしているとだいぶ日が傾き下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。もうタイムリミットだ。
校舎の窓を見る。
「もうこんな時間」
「コンビニに寄ろうよ」
など、声が聞こえる。
またあした、と心の中だけで呟いた。
歌はあの日から聞いていない。未だに曲名は分からなかったが、ぼくの心にはしっかりと焼き付いていた。
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