明日へ馳せる思い出のカケラ
 走るだけなら一人で出来る。部に属した今だって、現にこうして一人で走っているじゃないか。

 そこまで理解しているのに、でも何故か俺は部を辞めようとはしなかった。

『逃げるのか?』などと、周囲にバカにされる事を恐れていたんだろう。
 でもそれは俺の完全な思い違いであり、根本的にズレている感覚なんだ。だって周囲はそんな事を言うほど、俺に感心がないんだから。

 勝手な自己嫌悪に陥った俺は、増々走る気力を削いでいった。病は気からなんて昔の人は言ったけど、それは運動にも当て嵌まるんだろう。
 トラックの外周をゆっくりと流していただけなのに、俺の足は完全に止まってしまった。

 腰に手を当てながら少し歩幅を広げて立ち尽くす。視線はもちろん乾ききった土の上だ。うつむくというよりは、落ち込むと言った表現の方がしっくりくるかも知れない。
 そんな状態の俺であったが、ふと腰に当てた右腕に気を留めた。

 そこはあの日君に強く掴まれた場所だった。そしてあの日の帰り道で不思議な温もりを感じた場所でもあった。でもなんで急にそんな事を思い出したのだろうか。

 あの日の翌日。心臓マッサージの影響による過度の筋肉痛で、昨日の出来事が夢でないと改めて実感できた。
 そして冷えたお茶をついだグラスに触れた時、彼女のあの無機質な感覚を思い返し嫌悪感に苛まれた。でも俺を救ってくれた君の微かな温もりだけは、どうしても思い出せなかったんだ。

 それなのに、なぜ今になってそれを思い出したのだろうか。

 俺は君に掴まれた右手の手首を左手でそっと抑えてみる。
 実際そこには自分の体温以外に感じるところはない。でもなぜか心が穏やかに和む気がする。妙なほどに落ち着くんだ。

 どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。俺はその場に目を閉じて静止していた。
 すごく長い時間に感じる。でも苦痛じゃない。むしろずっとこうしていたいくらいだ。実際はほんの数分だったが、俺は不思議な居心地の良さに身をゆだねていた。

 でもいくらその場所がトラックの片隅とはいえ、他のトレーニングを行う学生達にしてみれば俺は邪魔だったんだろう。誰にされたかは分からないが、悪意の込められた舌打ちに気付き俺は目を開ける。

 ただ俺はそこで偶然と呼ぶにはあまりにも出来過ぎている光景に一驚した。そう、今俺が立っている場所は、あの日君が俺に助けを乞う為に駆け付け、そして俺の腕を強引に掴み走り出したあの場所だったんだ。

 背筋にゾッとした寒気が駆け抜ける。まさかの偶然に心臓が口から飛び出そうだ。激しい動悸に苛まれた俺は、胸を強く抑えてその場にヒザをつきうずくまった。

 体調の急変した原因はさっぱり分からない。気持ち悪いほどの偶然の一致に対して、正直に体が反応したとでもいうのか。
 でも今の俺にそんな理由を探る余裕はない。込み上げてくる吐き気は収まる事を知らず、口の中いっぱいに生温い唾液が充満していくんだ。とにかく早く、早くこの不快さを取り除かねば大変な事になってしまう。

 焦る俺は這う様にしてその場から距離を取ろうと足掻いた。何処でもいい。とにかくこの場所から離れたかったんだ。でも自分の意志に反して体は思うように動いてくれない。

「フザけんなよっ、なんで俺がこんな目に遭わなくっちゃいけないんだ!」

 心の中で俺は強く吐き捨てた。まるで自分一人が世界中の不幸全てを背負っているかの様に感じられたから。
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