明日へ馳せる思い出のカケラ
 俺はまだ子供だったから、そんな大人の責務を深読み出来なかった。
 いや、そもそも周囲の反応に気を掛ける余裕が無かったんだ。だってあの時は彼女の冷たい感覚が手に纏わり付いて、気持ちがすくんでいたからね。
 その結果、俺は彼の厚意にもまったく気付けなかったんだ。

 きっと関係者の誰かしらより報告を受けたんだろう。
 キャプテンだった彼も、夕刻のグラウンドで発生した事故の一部始終を知った。そしてその時の彼は腰を抜かすほどに驚いたらしい。

 まぁそれは当然な感情なんだろう。だってはたから見れば、当時の俺は無口で一人黙々と練習に励む根暗な部員にしか見えなかったはずだからね。
 そんな俺が適切な対応で突発的な難事を切り抜けた。まったく想像し得ない俺の行為に肝を潰したのは、彼にとってみれば至って真っ当な思いだったんだろうから。

 けどそれからというもの、彼は俺の事を強く意識するようになったらしい。
 いや、見直した。そんな表現が的確なんだろう。
 彼にしてみたって、そんな緊迫した状況を前にした場合、正しく対処出来たかどうか分かるはずがないからね。
 俺の行為がどれだけ至難の業だったのか、彼は理屈抜きで理解したんだ。だから彼は俺の事を意識するようになってしまったんだよ。

 でも俺達はそれまでほとんど接触が無かったからね。
 彼にしてみても、気難しく見えた俺に対して、安易に話し掛ける事に躊躇したんだろう。

 胸の内では彼女の命を懸命に救った俺に【敬意】の気持ちを素直に告げたい。
 そう思ってくれていたのに、彼はそれをなかなか表現する事が出来なかったんだ。

 ただ彼はバカが付くほど人の良い性格だからね。
 いつか俺に尊敬の念を伝えねばならない。そんな俺にしてみたらどうでも良い使命感を胸に抱き続けていてくれたんだろう。だから彼は俺に気を留め続けてしまったんだ。

 面倒見の良い彼の性格からして、きっと初めから部の中で疎外されていた俺を放っておけなかった気持ちも存在したんだろう。そしてそこに敬意という概念が彼の中に付け加えられてしまった。

 恐らくそれが俺を陰で見守る主因として、彼に根付いてしまった動機なのかも知れない。
 命を救ったことで、本来であれば敬われなければならない俺を陸上部の中で孤立させ続ける事に、彼自身が慙愧に堪えない想いを感じ取ってしまったんだろうからね。
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