明日へ馳せる思い出のカケラ
 だから彼は俺と接触する機会をうかがっていた。俺を放っておけなかったんだ。
 いや、それは少しオーバーな言い方なのかな。でも彼が俺と建設的な関係を築こうと努めていた事は確かな事実だったらしい。

 くしくも同じ1万メートル走という競技に身を費やす者同士という理由もあったろうからね。

 ただ当時の彼自身の状況として、インカレを控えた大切な時期ということもあり、俺の世話を焼く程の余裕が持てなかったっていうのが実状だったのだろう。
 そしてさらにその大会で彼は自己ベストを叩き出し、大学の陸上部始まって以来の快挙を成し遂げた。
 その結果、彼は周囲からの高い評価と次なる期待を一身に背負う立場となってしまったんだ。

 そんな彼が俺にみたいな他人に対して気遣う余裕を持てるはずなんてない。
 それゆえに彼は俺に敬意を伝えられないまま、忙しく時間を消費していくしかなかったんだ。

 しかし夏が過ぎた頃になって彼は気がついた。見違えるほどに陸上選手として成長した俺の姿に目を見張ったんだ。

 その理由はもう知っているよね。
 大好きな君が見守ってくれることで、俺はキツイ夏を無我夢中で駆け抜けた。
 これ以上無いほどつらく苦しい練習に身を投じていられたんだ。

 そして俺のそんな直向きな練習姿勢と、目に見えて短縮する走行タイムに彼は目を丸くしたんだよ。

 俺に一体何が起きたのだろうか。彼がそう疑念を抱く気持ちは分からないではない。
 黙々と練習に打ち込む姿勢はそれまでと変わらないまでも、その質の部分が激変していたからね。

 まったく妥協を許さず、部の誰よりも懸命にグラウンドを駆け抜けている。
 まだ長距離を走るには暑すぎる季節なのに、それでも駆ける度に自己ベストを更新していく。

 どこからそんな力が湧き上がって来るのだろうか。彼は不思議がりながら、そう俺を見ていたんだろう。
 でもその理由を彼は直ぐに察するんだ。君っていう存在こそが、俺を強く前に駆り立てている原動力なんだってね。

 晩秋の陸上競技会へのエントリー。それは彼がコーチに俺を勧めてくれたのがキッカケだった。
 俺の弛まぬ努力が、きっと大会で成果を発揮するだろう。彼はそう確信していたらしい。

 いや、たぶん彼の事だ。俺が君の為に走るって心に誓っていたのを察してくれていたんだろうね。
 だから彼は俺が君の前で輝けるチャンスの場を与えてくれたんだ。そしてそれは現実のものとなった。
 ううん、出来過ぎた結果をもたらしてくれたんだ。
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