明日へ馳せる思い出のカケラ
 はじめの数日こそ、しんどそうに練習をしていた君だったけど、次第に自分のペースを掴んだんだろうね。練習後の休憩所で君は笑顔で俺にこう言ったんだ。

「走ってる時は確かに苦しいけど、でも頭の中がだんだん空っぽになって気分が楽になるよ」

 その時に俺は直感として思ったんだ。君には幅跳びなどで求められる瞬発力ではなくて、長距離走で必要になる持久力に秀出ているんじゃないかってね。

 もちろん俺に比べて走るスピードは格段に遅い。初心者なんだから当たり前だ。でも練習時間だけはそれほど俺と変わらなかった。休み休みではあるものの、君は暑い夏の日差しの中で懸命に走り続けられたんだ。

 純粋にすごいと思ったよ。だって普通に考えたら持久走なんて敬遠して然るべき競技なはずだし、それにいくら君が頑張ったからって誰に褒められるわけでもないんだからね。
 同じ陸上部の女子選手の中には、俺より早い記録を持つ長距離走選手もいる。だから君が選手として試合に臨むのは到底無理なんだよ。それでも君は一生懸命走ったんだ。周囲からの冷ややかな視線など歯牙にも掛けずにね。

 俺はそんな君の姿を見て思ったんだ。過去より抱いていた彼女への暗い影を振り払いたいが為に、一心不乱に走っているんじゃないかってね。
 走っていると何も考えずにすむと告げた、君の言葉からそう連想していたんだ。けど俺のそんな想像は浅はかなものだったんだよね。だって走っている時の君の表情は、とても楽しそうだったんだから。

 素直な気持ちで走る事に楽しさを感じているんだろう。誰かと競い合ったり、良いタイムを出そうとしているわけじゃない。純粋に走る事への悦びを感じているんだ。
 そんな君の姿に俺は胸を打たれ、そしてすごいと思ったんだよ。

 中学より陸上をはじめた俺は、今まで一度たりとも走るという行為自体に楽しさや嬉しさなんて覚えた事が無い。いや、むしろつらさや厳しさばかり感じていたくらいさ。
 でも走る君の爽快な表情を見て俺自身が気付いたんだ。やっぱり走るっていうのは気持ちが良いんだってね。

 長い陸上生活で、俺は気がつかない間に競技という熾烈な競争原理に心を支配されていたんだろう。
 ゴールした順番がそのまま結果として反映されるように、陸上競技はシンプルだから人の優劣が簡単に決められてしまう。
 元々俺は他人を蹴落としてまで上り詰めたいと考えるタイプじゃない。むしろ平穏を好み、波風立てる事を嫌う和順な性格なんだ。だからそんな競争ばかりの世界に心底疲れ果てていたんだろうね。

 でもそんな俺にも一つだけ心休まる時間があったんだ。それは好きな音楽を聞きながら、何も考えず気楽に走るクールダウンのジョグの時間だった。
 けどそれって良く考えてみれば、君が走りながら感じている楽しさと同じなんじゃないのかな。改めて俺にはそう思えたんだよ。

 センスが無いのに俺が走るのを辞めなかった理由。それはやっぱり走る事が好きだったからなんだ。
 誰の為でもなく、まして誰に強制されるわけでもない。自分のペースで走りたいだけ走り、その気持ち良さに心をゆだねる。そんな感覚が大好きだったはずなんだ。
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