明日へ馳せる思い出のカケラ
 まったく予想もしていなかった。悪い冗談にしか聞こえなかった。でもそれは紛れもない現実だったんだよね――。

 手足に感じた震えは武者震いなのだろうか。いや、これは単に緊張と不安で怖いだけなんだろう。

 俺はその秋に実施される陸上競技会大会の出場選手に抜擢されたんだ。理由は簡単な事さ。有力選手のケガの代役にされただけの事なんだから。
 でも俺の大会エントリーを決めたコーチの発言に対し、耳を疑ったのはもっと別の理由についてだったんだよね。

 君が見守ってくれている中、これ以上ないくらい練習に没頭出来たのが好影響をもたらしたんだろう。実はその時の俺は、自分でも信じられないほどに良いタイムを記録していたんだ。

 初めにそれをコーチに告げられた時は信じられなかったよ。だってそれまでの俺の1万メートルでのベストタイムより、2分以上も早い記録だったからね。
 それもただ2分記録を縮めたんじゃない。この暑い夏の環境の中で縮めたんだ。

 そんなの部内全員を見渡しても俺だけだったんだよね。さらに言えば、これから季節は秋になり気温は下がっていく。言うなれば走るに適した環境になるのはこれからなんだ。
 タイムが更に縮むのは確実だろう。だからコーチは俺を出場選手に指名したんだ。

 決してケガした選手の棚ぼた扱いだったわけじゃない。いや、例えその選手がケガをしていなかったとしても、今の俺の記録だったら実力で選ばれてもなんらおかしい事じゃないんだ。
 そう胸を張って言えるくらい、俺は自分でも気づかないほどに力量が嵩上げされていたんだよね。

 ただそれでも俺は不安に駆られた。自信が無かったんだ。だってそうだろ。今までろくに大会なんて出場した事がないんだ。緊張するなって言うほうがおかしいはずなんだよ。
 2ヶ月も先の大会の事で頭が一杯になり眠れなくなる。こんな思いをするくらいなら、選手になんてならないほうが良かった――。

 相変わらずの及び腰は変わらない。気が付くと尻込みする弱気ないつもの俺が、隙あらば逃げ出そうと屁理屈に頭を回転させていた。

 でもその時の俺に現実から逃げ出す事は許されなかったんだ。だって俺の隣にはいつも君がいるんだし、そんな君に恰好悪い姿を見せるわけにはいかないじゃないか。
 それに少しは良いところも見せたいしね。

 高まる不安と馳せる期待の交錯する妙な気分に心は苛まれてゆく。
 そんな中で俺は全力で練習に明け暮れた。もう我武者羅に走りまくったんだ。俺にはそうする事しか出来なかったから――。いや、違うか。一心不乱になれるくらい、練習に打ち込めたんだ。
 だって君が心強くも優しく応援してくれていたから。
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