明日へ馳せる思い出のカケラ
 叱咤激励してくれるわけじゃない。君はただ頑張ってと見守り続けるだけだった。
 でもそれが何よりの励みになったんだ。そして君はこう言ってくれたね。

「別に成績が良くなくたって、自分が納得出来ればそれで良いんじゃない」って。

 その言葉にどれほど心が救われた事か。
 確かに君が言うように、高望みする筋合いは何もないんだ。少しくらいタイムが良くなったからって、別に部内で一番になったわけでもないし、まして大会で上位に食い込むことができるほどの記録に到達しているわけでもないんだから。要は俺に誰も期待なんかしていないんだよね。

 だったら自分が今出せる力を精一杯使い切って走り抜く。ただそれだけで上出来なんじゃないのかって思えたんだよ。
 またそう思う事で、つらい練習にも耐えられたんだ。

 俺が全力で駆けるのと比例するようにして、日々は加速して消費される。
 そしてまだまだ練習が足りないというのに、大会の日程はもうすぐそこにまで迫っていた。

 気を楽に保とうと努めていたつもりだったけど、やっぱり緊張と不安は徐々に俺を蝕んでいったんだろうね。
 ここに来て伸び悩むタイムに少し焦りを覚えていた俺は、一度だけ君に強く荒立った気持ちをぶつけてしまったんだ。
 もう何をやっても上手くいかない。完全に気が病んでいたんだろうね。

 でもそんな俺を君は穏やかに包み込んでくれた。心許無く震える手を優しく握りしめてくれたんだ。
 すると不思議にも強張った肩からすっと力が抜けたんだよね。

 そう言えばあの日、砂場で倒れた彼女に心臓マッサージをしようとした時も同じだった気がする。
 我を忘れるほどに強張った俺の肩に君は手をそっと添えてくれた。それをキッカケにして俺は落ち着きを取り戻したんだ。

 本当に助けてもらいたい時に救いの手を差し伸べてくれる。俺はその時改めて君の存在感を強く把握したんだよ。そして心に決めたんだ。今度の大会は自分の為じゃなくて、君の為だけに走り切ろうってね。

 根拠はまるで無いんだけど、そう思えば精一杯の力が出し切れる気がしたんだ。
 それにたとえその結果が報われなかったとしても、君だけは俺を心から祝福してくれると信じれたんだ。

 君の小さな手から感じる温もりは、俺の縮こまった胸の内を柔和に温めてゆく。そんな安らぎに気持ちを寄り添わせながら、俺は自分の心に誓いを立てたんだ。
 何があってもこの手だけは離さないって。その気持ちに偽りなんてもちろん無いし、そう決意した事に自然と胸が高鳴った事も本当なんだ。

 でも、そんな大切な誓いをずっと胸に抱き続けていく事がどうして出来なかったんだろうか――。
 俺にはそれが出来たはずなのに、君もそれを強く望んだはずなのに、それなのに俺達の未来はそうはならなかった。

 その事を人は理不尽とでも呼ぶんだろう。けど俺にはその言葉の代わりに【必然】という言葉だけが深く心に刻まれるんだよね。

 悔しいよ。それに怖くて堪らないよ。でも俺にはそれがどうしてなのかは分からない。逆に君になら、その答えが分かるのかなぁ。

 俺と君が付き合いはじめてから7ヶ月あまりが過ぎ去ろうとしていた。
 そして冬の到来を感じさせる冷たい北風の強く吹く日に、皮肉にも俺が人生で最も輝いた、あの大会の開催を告げる空砲が鳴り響いたんだ――。
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