図書恋ーー返却期限なしの恋ーー
 どれほど憂欝でも嫌がっても、明日はやってくる。

学校に行きたくない。外に出るのもいやだ。
 だけど同時に、なんでわたしがそこまで気にしなくちゃいけないのよ、とそれさえも嫌になる。

 フィジカル面でもメンタル面でも、傷ついたのはわたしだ。だったらビクビクしないで、いっそ堂々としていよう。そう思って半日を過ごして、だけど放課後になるいやいなや現れた姿に思考が停止する。

「亜沙子」
 走ってきたのか、息が荒い。廊下は走っちゃいけませんと、子どもに言わなきゃいけない立場のくせに。

「名前で呼ばないでくれますか」
 一瞥していた視線をすぐにそらして、本棚に本を戻す作業を再開する。本を抱えている両手が震えてることが悔しい。強く唇をかみしめた。

 っていうか、信じられない。昨日の今日で、どうして来れるわけ。わたしが傷ついてないとでも思ってるの?
 それほど、わたしのことどうでもいいってことなの。

 自分の考えに涙が出そうになる。昨夜さんざん泣いたのに、まだ水分に余剰があるらしい。
 哲の足音が聞こえる。こちらに近づくのを防ぐように逆を向くと、すぐにその肩を捕まれた。
「いやっ」
「聞いてくれ」
「はなしてくださいっ」
 咄嗟に、振り向きざま手の中にある本を哲に向かって振りかぶった。この間、哲の額に命中させたみたいに。

 驚いたように目を見張る哲。だけど、次の瞬間すっと目を閉じた。
 まるで、殴られるのを甘んじて受けようとするみたいに。

 ピタリ、と手が宙で止まる。頬に冷たい水の感触。あぁもう。
 自分がどんどん弱くなっていく気がする。

 哲がゆっくりと、訝るように目を開ける。頬をごしごしと手の甲でぬぐうわたしを、目を眇めて見ている。

「いくらでも殴って、いい」
 なにそれ、サイアク。

 わたしは背を向けて指先で頬の涙をはらい落とした。本でひとを叩いてはいけませんって、りゅうき君に言ったから。だからやめただけだ。

「あんなこと言うつもりじゃなかったんだ」
 背中に向かって哲が言う。どこか切羽詰まったような口調は、いつも余裕綽々だった哲とは少しちがう。
 だけどそんなことくらいじゃ、ごまかされない。

「信じてくれ。あのときはああ言うしかなくて」
「聞きたくないです」
 背を向けたまま言葉を遮断する。
 もう信じられない、哲のことなんて。

「小林先生の言う通りでした」
 振り返る。唇の端に苦い笑いを浮かべて、わたしはこんな表情もできたのか、と知る。

「本ばっかり読んでて、現実の男のひとがこんなに最低だなんて知りませんでした」

 今日はじめてまともに哲を見る。昨日よりもっと顔色が悪くなってるように見えるのは気のせいだろうか。目の下の隈はもはや黒い。一瞬倒れた哲の姿が脳裏に浮かんで、自動的に心配しそうになる心に待ったをかけた。

「亜沙子」
 どうして泣きそうな顔をするの? やつれた顔でそんな目をされたら、心が引きずられてしまう。そんなことしたくないのに。

「もう二度とここに来ないでください」
 固い声が出たことに安心した。それなのに、哲はいつもわたしの努力を無にしてしまう。

「いやだ」

 断固とした口調でそう言うと、わたしの腕を強く引いた。そのまま囲い込むように胸の中へと抱えられる。

 持っていた本が床に落ちる。本が無くなった分更に抱き寄せられ、昨日嗅いだ哲の匂いが鼻先に押し付けられる。
「こ、ばやしっ」
「哲だろ。呼んでくれよ」
 苦しそうにかすれた声。両腕で突き飛ばそうとしても、力の差があってそれもできない。
 くやしい。本当に、わたしの思い通りになることなんて全然ない。また涙が滲んできた。

 はい、しましたよセックス
 やーでもなんか、思ってたのと違うっつうか

 嘲るような笑い声。世界が真っ二つに割れた気がした、あの痛みがよみがえる。

 渾身の力で哲を引き離す。ドクンドクンと、鼓動が熱い。
 ぐっと眉を寄せて哲を見る。

「この程度の体じゃ力不足だったみたいで、お役に立てなくてすみませんでした。でもこれで充分ですよね? もう二度とわたしに関わらないでください」

 哲がどんな顔をしていたのか、あっという間に張られた涙の膜が邪魔して見ることはできなかった。
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